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2019年08月06日13:49

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50年前、僕の心をぶち抜いた映像は、決して月面着陸映像ではなかったと再確認しました。増村保造監督「盲獣」(1969)。

この映画は、大映系で1969年1月25日に公開されています。併映は田中徳三監督の「秘録おんな寺」。僕は封切りではなく、2月21日に二番館で見ていました。料金は250円。少し前に「日本春歌考」を見直していて、これが300円だから、かなり割安。2月1日に「緋牡丹博徒 花札勝負」を見ていて、これが400円とメモっています。おそらくこれが学生料金の正価だと思います。

今回は、マイミクさん主催の勉強会で見直しました。ビデオで見たと思うのですが、スクリーンに映し出されるのを見るのは50年ぶり。僕にとってはアポロ11号の画質の粗いテレビ画像なんか比べ物にならないくらい、圧倒的でした。マイミクさんがおっしゃったように、ウイリアム・ワイラーの「コレクター」を、増村風にアレンジしたのでしょう。

さらわれてくるモデル嬢島アキを演じた緑魔子は、自身「悪の華」という豪華な写真集をその前に発売していました。高価すぎてあまり売れず、古本屋にゾッキ本として安く並んでいました。僕はそれを買っていたから、東京に来て緑魔子さんにお会いしたときサインをいただきました。その本、どこへいったのか見当たりません。

僕はすでに20歳でしたから、ピンク映画を堂々と見ていました。若松プロ中心でしたけど。しかし、当時のピンク映画には不満でした。性描写がおざなりな作品が多く、若松プロ作品と言えども、“性の解放”とは程遠いものばかり。そんな状況で日本映画各社は、エログロを宣伝文句に掲げ、やはりおざなりの映画を次々と公開していました。

しかし「盲獣」は、正面から性愛に挑んでいます。生まれつき目の不自由な青年(船越英二)が、触覚だけで性愛を成就させようとする話です。そもそも性愛は、そのカップルの個的な問題だと僕は考えます。3Pなどの例もありますが、人間の性としての関係はカップルが基本だと思う。←もちろん男女に限りません。

脚本は白坂依志夫で、前半は母親と息子そして息子が相手に選んだ若い女という、社会的な位置関係で展開します。実は、誘拐して監禁しているのですから世間と断絶しており、だから社会的な関係は無意味なはずです。しかし主人公たちは、その関係にとらわれている。それは、アトリエ内を逃げ回る島アキの姿で見事に表現されます。緑魔子がアクションスターも顔負けのような素早さで逃げ回る映像は、映画的快感に満ちている。

ところがその社会的な位置関係は、母親の死で崩壊します。かくてカップル間で、死に至る壮絶な愛が展開する。これは当時、鮮烈でした。性愛という、生殖を基本にした性の営みが、実は死へと収斂していく。このドラマが、死を現実に意識する年齢ではなかった僕に突き刺さった。描かれる愛の行為が僕の好みではなくても、ドラマには大いに共感しました。

そして僕は、増村保造の「清作の妻」を見て、自分の人生を破滅に追いやった妻を絞め殺そうとした清作が、妻の首を絞めようとした手で妻の肌を感じ取り思いとどまる、あの触覚が「盲獣」で延々と描いていたことだったと分かったしだいです。自分が理想とする人物になれなくても、あの妻がいたら清作は幸せなのでした。

イタリア留学していた増村は、ネオ・リアリズムの真髄を体得していたのではないか。僕は今、そう思っています。世が世なら、溝口や小津を超えたであろう増村監督は、映画界の斜陽化でテレビ映像へと移行しました。しかしその結果、過労がたたって亡くなったらしい。実に惜しい才能をなくしたと思います。

なお「清作の妻」(1965)は、国立映画アーカイブの小ホールで、8月22日に上映されるようです。未見の方はぜひ駆けつけてください。
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