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2019年07月10日10:40

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「空」とはなにか

「龍樹の『空』と禅の『空』は異なる」と主張しているブログを見つけた。では、その人のいう正しい解釈というのはどういうものかと言うと、次のように述べられている。

【 私たちはふだん『ものがあって私が見る』という見方をしています。それを善では色(しき)の見方と言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです。(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください。いずれも「みかた」です。) 『空』の観かたによれば、『私がモノを見るという体験こそが真の実在だ』というのです。 】

表現に少々難はあるが、言いたいことは理解できる。禅を実践している方々の中にはこのように理解している人も多いのではないかと想像する。そのように思うのは、私自身もかつて「空」をこのように理解していたことがあるからだ。西田幾多郎の「善の研究」における「意識現象が唯一の実在である。」に通じる視点である。しかし、それを空観であると言ってしまえば、空観=「モノ的実在感の否定」というだけのことになってしまう。さらに、「龍樹の『空』と禅の『空』は異なる」とまで言ってしまえば、禅は仏教ではないと言っているも同然である。

禅においては仏に逢うては仏を殺せと言う、権威より自分の信念を押し通す心意気は買えるが、できる限り独断は避けた方が良い。大乗仏教においては龍樹の見解が公式見解である。それを否定するとなるとそれ相応の根拠が必要となる。やはり空というのは龍樹の言う通り縁起であると解釈すべきだと思う。つまり、ものごとはすべて相対的にしかとらえることはできない。私たちは所詮恣意的視点を離れることはできない。いかなるものの見方もドクサ(偏見)を帯びているということを知る、それが空の思想である。禅における不立文字というのもそういうところから来ているのである。

「空」や「無」はとかく神秘的に語られがちだが、少なくとも「空」については明晰に語ることができる哲学的概念であると言える。
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