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2019年07月05日10:06

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なるべくしてなった偶然の結果?

哲コミュの「人はなんのために生まれてきたのか?」というトピックで論じられていることについて、思うところをブログ記事にして、次のように述べた。

【 私達の本能が「種族繁栄」を志向しているかのように見えるのは当然と言えば当然で、子を産みそして育てる、そういう本能がなければ現在のわれわれもいなかったわけです。だからと言ってそれは誰かが仕組んだことでもない。いわばなるべくしてなった偶然の結果であります。 】

よく考えれば私は奇妙な言葉遣いをしていることに気がついた。「なるべくしてなった偶然の結果」というのは矛盾したもの言いである。「必然的偶然の結果」と言っている。いったいこれはどういう意味だ? 自分で言っておいて自分で不思議がっていれば世話はないが、とても奇妙な感じはする。

しばらく考えた結果、この表現はこれで良かったのではないかと考えている。結果として現出した事態は必然のものとして受け止めなくてはならないが、なぜよりによってその事態が選ばれたかは人知の及ばぬことであって偶然なのである。

ウィトゲンシュタインは、「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(6・44)」と述べているが、「世界がある」という時点で。無限のバリエーションの中から事態は出来している、現に出来している、何事もなくやすやすと出来しているということがめくるめく神秘である。
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