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2019年06月15日06:22

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当たり前のことだが、ナイーブとナーバスは違う

以前から私は、日本語としての「ナイーブ」という言葉についてこだわり続けている。この言葉をきっかけに考えることを通じて、ウィトゲンシュタインによる言語のアスペクト論について理解することができたと思っている。

「ナイーブ」はもともと、純真、素朴とかうぶという意味である。その延長で、日常的には無知とか世間知らずというようなネガティブなニュアンスで用いられることが多い。ところが、日本ではなぜか「繊細」という意味で使用されることが多い。日本的には、純真と繊細が重なるイメージがあるのだろうと考えられる。

問題は日本人の中でも、この言葉をもともとの意味に忠実に解釈する人と、「繊細」という意味に解釈する人に分かれていることである。

昨日、テレビのバラエティ番組を見ていたら、日本の年金がテーマで議論されていたのだが、司会者が「政府関係者が、この二千万円の貯蓄問題には非常にナイーブになっている」と述べた。おそらくこれを聴いた視聴者の何割かは腑に落ちないものを感じ、残りの何割かは何事もなく聞き逃したと思う。このような状態が私にとってはとても居心地が悪い。ここのところは「ナ―バス」と言って欲しいところである。

言語との出会いは最初が肝心である。一般に単語の意味はいろんな使用例から抽象されると考えられがちだが、実際は初めて単語に出会った時点でその言葉に対する相貌が立ち上がってしまうことが多く、その後の齟齬からくる訂正はそれほど容易ではない。「ナイーブ」というような心の中の性質に関する語の意味は、理論的にはは数多くの使用例から抽出しなければならないのだろうが、我々が言語を使用できるためには言語習得の過程は単純でなくてはならないという要請があるのだろう。方言が生じる理由もそこにある。

小さな共同体の中で「ナイーブ」が「繊細」という意味で使用されているならそれはそれで問題なく正しい言葉遣いだと言えただろう。共同体の中で「ナイーブ」が齟齬なく使用されていたなら、それはれっきとした方言として正しいのである。しかし、今日のようにマスメディアの発達した社会では「公共」の意味も質的に厳格にならざるを得ないでそれも致し方ないことである。
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