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2019年06月09日06:16

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「今」は動かない。

時間という概念が存在論的に有意義であることは前回記事 でも述べた。あらゆるプロセスは『時間』という秩序に支配されているのであって、われわれの生活もその秩序の上に成り立っている。その秩序というのはひとえに様々なプロセスが同期しうるということにある。朝学校へ行けば始業時刻には皆顔をそろえていて、先生が教室に来られて授業を始める。デートの時刻と場所さえを申し合わせておけば、恋人たちは再び会うことができる。お互いに(直接には)影響を及ぼしあわない、一見無関係だと思われるプロセスが同期する、これは驚くべきことだ。そういう意味で時間という概念は我々にとって必須のものであるにちがいない。

前回記事で言いたかったことは、われわれの日常では時計の針の動きに時間というものを仮託しているが、それによって時計の針の動きに合わせて、『時間そのもの』が動いていると考えるようになるということだ。それと同時に、時計の針の先端が示すところの時刻を「今」だとしている。つまり、時計の針の先端が「今」なのである。すると時計の針は常に動いているのだから、「今」も常に動いていることになってしまう。

しかし、よく考えてみるとこれはおかしい。常に「今」なのだから「今」は動いていない。時計の針を固定して文字盤の方を回転させれば、「今」は動かないで、時刻が動いていることになる。

一体、「今」という言葉の指示対象は何だろう。いつでも「今」で「今」でない瞬間はないなら、それはおそらく存在者ではない。我々はすっぽり「今」の中に居るのであって、それを俯瞰することはできない。あらゆる事象が現前する、その場を「今」と称しているのだと了解するしかない。

そう、あらためて虚心坦懐に世界を眺めれば、あらゆるものが動いている。それも今動いているのである。どんなプロセスも今しか動かない。過去も未来も静的である。前回述べたように、過去は記憶または記録、未来は想像または計画であり、それら自体は静的である。

われらの住む空間は一般に、縦×横×高さ×時間の4次元空間であるとされている。時間軸の各点に3次元の静止画像がびっしり詰まっているようなイメージでとらえれば、物理学的な時間の把握は完全である。ただ3次元の静止画像が連なっているイメージは我々には想像不可能なので、2次元画像で代用すると、それパラパラ漫画のようなものとして想像できる。

哲学者の永井均さんは、過去(未来)のどの時点をとっても、その時点においては「今」であり、その時点での「過去ー現在ー未来」が存在したと主張する。つまり、過去や未来のどの時点をとっても、それらはダイナミックな「今」たる資格があるというのである。その証拠に時間軸上のどの部分のパラパラ漫画を取り出しても、パラパラやれば動画が動き出す、と言いたいのだと思う。しかし、それは間違っている。過去と未来はあくまで静的な記録に過ぎない。時間軸上のどの時点をとっても「過去ー現在ー未来」が成立するなら、過去・現在・未来が交錯してしまい矛盾するというのはマクタガードが指摘したとおりである。

パラパラ漫画をパラパラとやって動かせるのは、端的な「今」しかない。つまり、時間をダイナミックなものとしてとらえる「過去ー現在ー未来」(A系列)というのは、あえて言うなら端的な「今」の一つだけにおいてしか成立しないのである。
過去であろうが未来であろうが、すべてのものは「今」においてしか意味をもち得ない。動く「今」とか流れる時間そのものというのは幻想であると考えられる。
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