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2019年03月30日11:17

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金字塔は簡単には建てられない

言葉というのは他人のまねをすることによって憶えていくものである、ということは知っている。しかし、特殊な比喩的表現というものはそれを発案した人のものであって、それが一般化することは望ましいことではないと私は思う。

そういう意味で気になるのが、異常な興奮状態を表現する時の、「アドレナリンが沸騰する」という言い方だ。どう見ても生理学などにはそれほど詳しくなさそうな人がよく使う。いきなり「アドレナリン」と言われても、そんなものこちらは見たこともないのだ。液体かどうかも分からないのに「沸騰する」といわれても、そのような事態を想像しようもない。言いたいのは、この表現が非常に特殊な比喩であるということである。この表現の発想はすぐれたものであるにしても、一般化すると陳腐なものになってしまう。真似して使うような表現法ではない。

スポーツ選手が偉業を成し遂げた場合には、「金字塔を打ち立てた」という表現が使われることになっているらしい。おそらく「金字塔」の意味がわからないまま使用しているのだろう。おそらく、金色の文字でその業績が書かれている看板のようなものを想像しているのだろうが、だとしたらその使用法は間違っている。金字塔とはピラミッドのことである。金色の文字とは全く関係ない。ピラミッドの形が「金」という文字の形に似ているから、中国では金字塔ということになっているのである。スポーツ紙に書かれていることが本当なら、イチロー選手は既にいくつものピラミッドを打ち立てたことになる。ピラミッドはお墓なのだからそんなにたくさん作る必要はないのだ。

もう一つ気になるのが、「不覚にも涙」という言葉。「不覚」などという言葉は最近ほとんど使われないのに、涙を流す時に限って「不覚」になるのは如何なものだろう。涙を流す時にはいつも不覚なのならば、不覚という言葉を使う必要はない、まあ、たいていの人は涙を意識して流そうとしているわけではないのだから。
「不覚」は日常語ではほとんど使われない。おそらくほとんどの現代人の「不覚」に対する語感は時代劇などを見て得たものだろう。果し合いで敗れた方が、息も絶え絶えに「不覚!」と言いながら絶命する。そのようなシーンから現代人は、「不覚」からその残念なニュアンスを読み取る。そういうところから、「不覚にも涙」は覚えずに流した涙を恥じる、という意味に使うのだろう。おそらくその使用法は間違っていない。だがしかし、私は普段は使われない「不覚」という言葉が「涙を流す」場合に限って使われることには非常な抵抗を感じてしまうのである。

言葉使いにこだわるのは老人の傾向であると聞いたことがある。まあ、私は名実ともに老人であるので言わせていただいている。
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