前々回の日記のウィトゲンシュタインの言葉をもう少し検討してみたい。
【我々が生きている世界は、感覚与件の世界である。しかし、われわれが語る世界は物理的対象の世界である。】(1931-33年の講義から)
そう、私達が語るのはたいてい物理的対象の世界、つまり客観的に実在しているとされている世界のことである。しかし、私が生きているのは感覚与件の世界、つまりクォリアからなる世界である。よくよく反省すれば、客観世界を記述する言葉も文字も、私はクォリアとして受け取っている。
だとすれば、物理的対象の世界は一体どこにあるというのだ。カントは「物自体に触発されて表象が生じる」というが、私には表象しかないのだから、本当は順序は逆で「表象があるから物自体がある」と想定しているだけではないのか。カントの物自体もロックのものそのものも推論によって構成されたものに違いない、というところに落ち着かざるを得ない。当然我々が語るところの「物理的対象の世界」も思考により構成されたものである。
意識のハードプロブレムというのは、構成された虚構のメカニズムによってクォリアを説明しようという逆転した発想から生まれるのである。
「空は青く、夕日は赤い。」という事実から科学という虚構は造られる。しかし、物理学や生理学がどれだけ進歩しようとも、なぜ空が青く見えるのかということは永遠に説明できない。まず「空が青い」という事実がある。それは原事実であるのだから、なにかによって説明される性質のものではないからである。
このことはあまりにも明々白々であるにもかかわらず、意識のハードプロブレムがいまだに未解決であるかのように語られることが不思議だ。
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