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2019年02月25日06:29

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ウィトゲンシュタインの数学観

「論理哲学論考」の次の文言から、ウィトゲンシュタインのスクエアな数学観がうかがえる。
【6.021 数は操作の冪である。】
【6.031 集合論は数学ではまったくよけいである。】

ウィトゲンシュタインは数を単なる操作の繰り返しを量的に把握するものとして考えていた。数を集合の集合と考えていた、フレーゲやラッセルとは数学に対する考え方の基盤が大きく違う。

つまり、1,2,3‥‥、と数えるものが数であるとすれば、無限という概念は文字通り単に「限りがないもの」となる。当然、自然数は数えきれないものであって、自然数の全体の集合などというものは存在しない。

実無限というものを認めなければ無限集合というものを考えることができない。無限集合を扱わないのであれば集合論はその意義がほとんどなくなってしまう。

「いかなる盾をも突き通す矛」と「いかなる矛をも撥ね返す盾」表現する時の、「いかなる盾」と「いかなる矛」によって指示される集合が問題になるのは、それらの内容があらかじめ「枚挙」されていないからだ。この「いかなる盾」と「いかなる矛」が現存の盾や矛の集合を意味するなら、単に、「いかなる盾をも突き通す矛」という表現と「いかなる矛をも撥ね返す盾」という表現のいずれかが間違っているだけの話に過ぎない。

それがパラドックスとして感じられるのは、どちらも無限の強度を持つ盾と矛を含んでいると私達が考えてしまうからに過ぎない。この時の「無限」の意味を私たちは直観し得ないというところに、ウィトゲンシュタインの正当性があるような気がする。

ウィトゲンシュタインとっては「ラッセルのパラドックス」もゲーデルの不完全性定理における決定不能命題も、単にナンセンスであるという以上のものではない、ということになる。

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