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2019年01月13日21:30

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言語と美術

様々な実験的な活動をされている詩人。


言語と美術
〜平出隆と美術家たち〜
@DIC川村記念美術館
フォト



詩人で多摩美教授の平出隆さんが監修する展覧会です。

美術家は言語を用いずに制作する、というみかたに疑問を投げ
それぞれの発する言葉を聞き取ろうとするのがコンセプトです。

会場は一階の一室と二階の企画展示室。
特に2階がユニークな構成で驚きました。
展示室全体を回り込むように5つのエリアに仕切り、
各周辺エリアはさらに透明な梁によって仕切られ
そこには「手紙書籍」やポストカードのような平出作品を展示。
両側の壁は二人のアーティストの作品を展開していました。
瀧口修造にジョセフコーネル、加納光於に中西夏之、
ドナルドエヴァンスに河原温、岡崎和郎に奈良原一高。
4つの展示室に囲まれた中央の空間にはアルマンドの梯子のあるゼロ空間。
エミリディキンソンの封筒詩もありました…

まあ空気感を含め文字で説明することは困難です。
会期終了後に撮影が行われアーカイブが残される予定だというのも
あの空間を惜しむ声が多かったためでしょうか。


会期終了を2日後に控えた
トークイベントを聴きました。

平出隆×郡淳一郎(オルタナ編集者)×澤直哉(ロシア文学者)

まず平出さんからお二人の紹介。 

郡(こおり)さんはオルタナといってどのくらい(皆さんに) わかっていただけるのかな。 
本の世界で支配的な出版の流れを覆すというか、関東大震災以来の
出版の歴史を研鑽したというすばらしい業績をお持ちの方です。

また、澤さんは古典から現代まで、美術から音楽にいたるまで 広範囲に研究をされています。 

このお二人を選んだのは、展覧会に鋭い批評をもらいたくて。
郡さんには書物論の文脈から、澤さんには詩・文学に対する姿勢から
より本質的な批判をいただけるのではないかと。

展覧会自体は10月6日にはじまって明日まで。 明日で消えていくというこのタイミングでそうした話をするのは スリリングだなと思います。 

さて、企画は美術館の赤松さんたちがおたてになって去年1月に お話をいただきました。 
この規模の展覧会としては短期間でできたのですが 
それには建築家の青木淳さんにこちらの考えが正確に伝わった ことがあります。感謝しています。 

1階奥のX室は常設展に囲まれていますが 
常設も企画展の一部だというみたてで 
そして2階のY→Z→ホワイエ と全館を使わせていただきました。 
なかでもY室。 
4つのまんなかに小さなひとつの空間があるという迷路のような 循環構造が「終わりなき」という特徴を決定づけている。 
まあ終わりなき構造も明日で終わりますが。 

このトークは終わりなき迷路にはいりこまないよう 
「空中の本を巡って」というタイトルをつけさせていただきました。 

澤 
展覧会をみて、平出さんが美術を重視してこられたことが初めてわかりました。
80年代『破船のゆくえ』以来、ものと言語についてことばを尽くしてきた方だ と思っていましたので。 
今回の図録の巻頭でも李禹煥に近いものを感じる、とか書かれていますね。
詩人は言葉を「もの」として扱う。
美術という「もの」そのものとは対立するのではないか。
しかし「もの」だって言葉が貼りついている。
純粋な「もの」などないという視点で作品を作って文を書いている。
作品を檻といわれたこともありますね。
詩は作品になると「もの」に近くなる。
美術は作品になると違うものになる。
作品としての詩と、そのものとしての詩は違う。
詩は言語でも「もの」でもないが、言語で書かざるを得ない
というジレンマがあったのではないか。
そうしたものからもう一度詩をみつめなおしたのかな。
どうしても文学のほうに目がいきますけれど。


デュシャンの大ガラス(を写した奈良原一高の写真群)がありましたね。
デュシャンはレディメイドを美術にしたけれど
平出隆は美術をガラクタに戻せるんじゃないか。
美術館では作品は尊いものですが、それに肩入れせず価値をはがされたものに
変換しなおして、そこから自らの言語で詩をかいているのではないかと
思いました。
先ほどのようなジレンマはどう解決されているのでしょう。
エアランゲージ(からっぽの言語)というけれど、詩が作品となってしまうことに
抵抗するのはどこまで有効なのか。
作品が作品たらざるをえないことを美術はどう解決するのか。



私は展示をまわって、2回ほど目の前に壁がそそりたつような感覚をおぼえました。
ひとつはデュシャンの大ガラスを奈良原一高が撮って、それに平出さんの言葉が
つけられている。平面的にそれまで歩いてきていきなり垂直に
言葉がつりさがるような、降ってくるような感じがしました。


もうひとつは真ん中の部屋。
美術とも書物ともつかない紙切れやガラクタのなかに
アルマンドの梯子がそびえたつ。
それをみながら、この展覧会は一つの本だったのではないかと気づきました。
川村美術館の芸術作品を土台にして平出さんが梯子を天にのぼっていく。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に梯子は登ったら投げ捨てなければならない
ということが書いてありますが
まさに空中の言語へ上るための、投げ捨てるべき梯子として本展をみました。


平出
昨年1月から展覧会をつくるうえで、いろいろな迷いがありました。
その迷っている過程も10人ほどの様々な立場のスタッフにすべて見ていただいて
オープンに打ち合わせてきました。

一番迷ったのは自分の印刷物をどこに置くかということ。
そして作品と作品でないものの関係。
美術館で必要とされるプレステージに届かないものがあるのではないか。
そうしたものは片隅に置くか?
隙間か?隙間はどこにあるのか?
すると次第に、すきまは各部屋のセンターラインにある、ということがわかってきた。
そこなら美術品じゃなくてもいいかな。
かくして自分のプリントマスターは各部屋のセンターラインに並ぶことになりました。


第一室では瀧口修造とジョセフコーネルです。
理屈としてセンターに瀧口はヘンだということになり、センターには
私のプリントマスターが貫いて吊られました。
ここに作品と作品でないものの違いがある。
空中の本へという書物論につながっていく。



エアランゲージプログラム草稿というのが空中の本そのものとして
みえていますが、そのなりたちについて質問します。
奈良原一高の大ガラスの写真と
平出隆の詩
これは見開きになっているとみていいのですか。


平出
そうです。
実は最後のページが展覧会にでていまして右と左で2つの本のタイトルが見える。
大ガラスはもともと瀧口が奈良原に撮ってほしいと依頼したものです。
しかし美術作品など撮りたくない、と奈良原は逡巡していた。
アンビバレントな感情が撮影者にあったのです。
瀧口は絵本のようなものを作りたかったようです。詩集ではない。
しかしそのうちに瀧口が亡くなり、みすず書房から奈良原の写真集がでた、
そのようなついえた企画なのでふつうの詩集にはならないのです。


ここでエアランゲージプログラムについて説明しますと、
まず郵便型の本があります。
わずか8ページしかないものですがISBNコードをとって2010年からやろうとした。
書くことの延長がかろうじてミニマムな形で本になる。
これは出版に対する絶望からもきています。
読者はまあ40人くらいかな、と初版は40部にして。
空をとんで届く郵便の本。
そもそも本は書棚という地上から浮いた状態に存在しますし
読まれているときも空中に浮いている。
開くと別の空間になる。本には空中志向があるんです。
本を開いたときのつなぎめ、のど、といいますが、これは回転運動ではないか。
そもそも人類の営みとして最初の本は何か?
洞窟の人の手型ですか。
インプレス。自分が存在した跡を残す。
川沿いの谷に痕跡を残す、というのもある。谷が何か生まれる構造である。
本の形は谷に似ていませんか。

エアランゲージプログラムという言葉をだしたとき、
 エアギターといえばなんちゃってギターでしょう、
エアランゲージも それでいいんですか、といわれました。
 それには一瞬たじろいだんですが、翌朝には立ち直ってそのまま使うことにした。
 つまりなんちゃってプログラムということになります。 


 展覧会自体が本なんだとすればあと二日で壊されるのはね。 
エクリチュールとしての造本はものだが行為と一体のものだと。 
日本語の歴史は西洋と異なります。 
日本には聖書のようなジェネレーター、本を生み出す契機的なものがない。 
Y室では行為と密接なもの、進行中なものた並んでいる。 
本来本は残るものなのに壊れるものと対比されて。
郡さんの名言で 
「エアランゲージプログラムはこの展覧会が初出なんだ 」
というのがありましたね。
作品は必ず雑誌で初出があるものですがここがそれだと。 



郡 
日本語は縦書きが書物の空間を生み出している。 
今回のエアランゲージプログラムの特徴に 1行が長い ということがある。
最高51文字。 
これは行末近くで改行しようとすると 大変な負荷がかかっていますね。 
下まで行って再び天に戻ってきたものの緊張感がすごい。 
日本語のページフェースを構成しているのは縦書きだからね。 

平出
中国でもいまやほとんど横組みです。 
自分は重力を利用しているだけか、と反省しています。 
美術の世界に縦横はあるのかな。 
掛け軸は縦ですね。 

たとえば河原温。 
彼は1959年まで日本にいた。 それから横書きの世界へ転移した。 
はがきのシリーズをみても横書きスタンプの厳密さはすごいですね。 

今回とりあげた美術作家たちはいずれも作品であることを疑ったのが 大前提になっています。 
そこへ私が憧れた。 
作品になることへのいらだちをエネルギーにして いままでと違うことへ向かおうとしている。
美術そのものを壊しかねない衝動が大変な魅力です。 
彼らの美術のなかに「超えるもの」が見えていてそれが すばらしい作品になって表れている。 
本という形が媒介になって梯子になるように。 

郡 
縦と横では行への重力が違います。 
平出さんがアンセルムキーファー展に寄せたソネットは横だった? 

平出 
あれは英語と見開きにならなければいけなかったので。 
詩的出発としては、行を恣意的に切ることへの反発がありまして 
それで一時散文へ行ったのです。
 行については高度なレベルで検討してきました。 
1行を1ストローク、とみなしまして。 画家が筆をはこぶときと同じです。 

プロニウスの「1行なし1日はなし」 
という言葉があります。
毎日1行書きなさい、ということですね。 
1日1筆描くという絵描きへの言葉にも通じます。 
そのストロークが切れるところが息継ぎ。 
韻文はすべて息継ぎからできている。
言葉の音楽ですね。 
でも息継ぎを入れれば詩になるのか、というものが氾濫している。 
散文と詩をいちばん誤解しているのが詩人です。 
苦しいときにするのが息継ぎで、散文との境目に近づくと 本来の息継ぎがあらわれる。 
51という数字がさきほどから出ていますが
数や枠をつくってそのなかで詩を破たんさせる方向を試している。 

今回10人の美術家が登場していますが、
1人1人からその方法を もらってきました。 
どんな工夫をして困難にたちむかっているか、よくわかるのです。 

澤 
ものを恣意的に扱うことへの抵抗、それが平出作品を私が 読み続ける理由です。 
詩を言語によって説明するのではない。 言語を詩によって説明するべきだ。 
それは鉄で彫刻をつくるのでなく、彫刻で鉄をつくるというのに 似ている。 


郡 
デュシャンは網膜的絵画を否定しました。 
精神の道具に絵画を戻した。 
それはもはや絵画でなく文学ともいえるのではないか。 
奈良原はあえて美しいプリントをつくってデュシャンを否定した。 
平出はその写真をけとばした。それがカッコいい。
 
平出 
みんな仲良く、というより好敵手がいる方がいい。 
この展覧会が美術と詩、美術家と詩人の 食うか食われるかという関係になっている。
 
今日は会場に人が多かったのですが普段はあまり お客さんがいません。 
できたばかりのときはこれでよかったのかな?と思いましたが 今は開き直って充実感があります。
1人でも多くの人が 見なかったことをくやしがるようになってほしい。 
神話まではいかなくても噂になって残る自信というか過信はあります。 
アーカイブ化もされるようなので楽しみです。 


トークのあとには質疑応答がありました。


問。 
最近野球はされていますか。
 答。 
実は草野球をやっているんですよね。 それも1年に56試合やるというかなりハードな。 展覧会の間はできませんでしたので明後日から 固定ポジションをとれるように… 

問。 
作品数に規則性は。行為と数について。
答。
 特に7が好きというわけではありません。 77とかそろえた数にポイントがある。 迷いを払しょくする手立てとして決めています。
 
問。
手紙の形態をとるものにコードをつけたのは何故ですか。 (申し込むと封書の形態で数ページの作品が定期的に届くというものがあります)
答。
ISDNコードは手紙なら要りませんね。
それにわざわざ入れることで矛盾をおこす。逆らう思考といいますか。 
そのまま認めるという発想でなく問いを投げ掛ける。
制度の中に入って逆らう。
むろん昔の書籍にコードはありませんが、現在形であろうとしていて。

問。
現代においては何が作品で何がそうでないのでしょうか。
答。
確かに現代では何でもありでこのままでいいのかという疑問が湧くかもしれませんね。
私は美術の運営側ではないのですが
美術の中に言語があるのは確かだと思います。
固有のものであれ他のものであれ最後は説明がつかないといけない。
日本語に理詰めは合いませんが言語を持たない方向に向かうものには疑問を持っています。

問。
展示室がXYZとなっているのは何故ですか。
答。
展覧会タイトルは当初「終わりなき対話」でした。
モーリスブランシュの書名にもなっていますね。それだからです。
ABCだと「始まり」になるでしょう?

問。
ドナルドエバンスのクリスタルケージ、2と3が展示されていましたが商品になりますか。
答。
なります。編集は進んでいてエバンスの友人からのデータを待っているところです。

問。
今日のお三方は敵という言葉を使ったり強い気持ちを持っていらっしゃるのが格好いいと思っています。
何が嫌か、敵かお答えいただけますか。
答。
郡:印刷物をワイヤーで吊るから空中の本、というのは擬態としてわかりますが
本を磔にするのが正しいことなのか。どうでしょう。
澤:今回はサイトマップだけでキャプションがありませんでした。
大きな固有名詞が小さく表示されていたのもよかった。
これが例えば大きく「瀧口修造万歳」とか書かれていたら嫌でしょうね。
平:監修者というのは居心地が悪かったです。
タイトルも…もっとメチャクチャな方がよかったかな…

なんと展覧会タイトルにダメ出しが(笑)

1月14日にて終了。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/index.html
フォト



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