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2019年01月01日07:13

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諸子百家

 高校の世界史で孔子、老子、荘子、荀子など習った覚えがあります。墨子も「墨守する」とセットで覚えましたが、ではその思想は?というと思い出せません。私の記憶は儚いもののようなので、一度“活を入れる"ために本を読んでみることにしました。

【ただいま読書中】『墨子』草野友子 著、 角川ソフィア文庫、2018年、800円(税別)
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 諸子百家の時代、墨家は儒家と並べて「顕家」と称される人気の思想だったそうです。ところが墨子の死後、学派は「別墨」と呼ばれる二つ(または三つ)の派に分裂。秦の始皇帝の時代には衰退してしまい、歴史からその姿を消してしまいました。
 墨子の主張のベースには「儒家」に対する対抗意識が見えます。トランプ大統領がオバマ大統領の政策を否定することに熱心なのとちょっと似ているかな。ただ、時代(今から二千数百年前)のことを思うと、現代に通じる“過激さ"も感じられます。
 たとえば「相愛」。儒家の思想のベースは「親への孝心」で、それが国レベルに発展させられて「君主への忠義」へとなりました。しかし墨子はそれを否定します。「子→親」「民→君主」の「愛」は否定しませんが、それだけではなくて「親→子」「君主→民」の「愛」も伴うべきで、だから「相愛」なのです(マキャベリが、「秘書官は国と君主のことだけに専念するべきだが、君主が秘書官のことを考えてやらなければならない」(「君主論」)と述べたのを私は連想します)。さらに墨子は「相愛」を一般化します。過激です。「親」「子」「君主」「民」とかの区別を「自分」と「他人」と一般化し、「自分への愛」と「他人への愛」を区別するな、と主張するのです。これが「兼愛」です。
 墨子は平和論者ですが、非戦論者ではありません。「非戦」ではなくて「非攻」なのです。さらに墨家の集団には技術者も多く含まれていて、戦争となると攻められている方にかけつけて防衛に専念し、決して敗れることがなかったそうです(これが「墨守する」の意味です)。本書には「雲梯」という攻城兵器に対して彼らがとった防衛法が書いてあります。というか、「雲梯」は本来は兵器だったんですね。
 「攻められない」ためには、防衛力(軍事力)だけでは不十分です。国力が強ければそう簡単に手は出せなくなりますから、国力を増しましょう。そのために必要なのは人材ですが、そこで手っ取り早いのは「厚遇」です。「まず隗より始めよ」を思い出しますが、これは古代中国では当然の発想だったのでしょう。今の日本では「厚遇」はあまり人気がありませんが、日本は“強く"なりたいのかな?なりたくないのかな?


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