mixiユーザー(id:235184)

2018年12月25日07:30

86 view

イチローの背番号

 日本でもアメリカに移ってからも51番であり続けたことは熱心な野球ファンには当然の知識でしょうが(ヤンキースで51が永久欠番だったので31番でしたが)、彼が42番をつけてアメリカでプレイしたことがあるのを知っている人はどれくらいいるかな? 4月15日「ジャッキー・ロビンソン・デー」にアメリカでは選手全員が「42番」を背負うので、イチローも42番をつけていたのです。なんだか妙に嬉しそうにしていた彼の姿を私はテレビで見た覚えがあります。

【ただいま読書中】『黒人初の大リーガー ──ジャッキー・ロビンソン自伝』ジャッキー・ロビンソン 著、 宮川毅 訳、 ベースボール・マガジン社、1974年(97年新装版)、2500円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4583033974/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4583033974&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=9bc7e4b5fdb50d5f527f2dd21899df0e
 貧しい家庭に育った著者は、スポーツで頭角を現し、高校でも大学でも、フットボール・バスケットボール・野球・陸上の学校代表選手となります。卒業後に「真珠湾」が勃発。徴兵された陸軍は「人種差別禁止」が謳われていました。建前でしたが、それでも人種差別を嫌う白人が実在していることを著者は知ります。戦後は野球の「黒人リーグ」に参加(大リーグ選手は白人専用でした)。
 そこで話は、1910年のブランチ・リッキーへ。オハイオ州ウェズリヤン大学のコーチだったリッキーは、チームを連れてインディアナ州に遠征したときホテルで「黒人選手だけはお断り」と言われます。そこでリッキーは「自分の部屋に補助ベッドを入れてトーマスを寝かせる」妥協案をホテルに飲ませましたが、その部屋でトーマス選手は黒人である絶望感をリッキーに打ち明けました。35年後、ドジャースの会長となっていたリッキーは「新しい実験」に踏み切ろうとしていました。彼は若い頃に知った「黒人の苦悩」を忘れていなかったのです。まずセントルイスの球団重役としてスポーツマンズパーク(のちのブッシュ・メモリアル球場)で黒人席の廃止を画策し、周囲の反対で断念。しかし彼はあきらめません。次は「黒人選手の採用」を考えます。道徳的に正しいし、それでチームが強くなったら経営的にも正しい判断なのです。最初に目をつけたのが、本書の著者ジャッキー・ロビンソン。しかし公然とスカウトに動いたら、アメリカ社会がとんでもない反応をすることは目に見えています。そこでリッキーはカモフラージュのため「新しい黒人リーグをドジャースが作る」と打ちあげます。これは「黒人選手を利用して黒人差別を助長する」と、黒人と差別反対論者の反発を招きます。ところがリッキーが「遠い将来白人と黒人が一緒になるための準備」と真実に近いことを語ったら「偽善者」のレッテルを貼られ、逆に動きやすくなりました。実は当時のアメリカには、この手の偽善(口では差別反対と言って、実際の行動は別)が満ちあふれていたのです。おっと「当時のアメリカ」と限定する必要はないでしょう。今のアメリカにもひそかに残されている様子ですから。
 まずはドジャース傘下マイナー・リーグのモントリオールと契約。リッキーは「侮辱やラフプレーなどを白人はするだろう。それに仕返しをしない勇気を持て」と「優れたプレイヤー」であると同時に「優れた人間」であることをジャッキー・ロビンソンに求めます。野球を観戦に来た白人たち(と相手チームの選手)は著者がどこまで侮蔑に耐えられるか“テスト”(憎悪を込めた悪口、侮辱、肉体的な暴力)をし続けます。「黒人が本当に紳士であり得るか」のテストですが、それをやっている“試験官”たちはこれ以上ないくらい下劣な存在になっているんですけどね。まず自分が「紳士」になって、それを黒人が見習えるかどうか、の方がよほど好ましい“テスト”になるような気が私にはします。「自分は紳士になる気がない」人間は他人にもそれを求めちゃイケナイでしょう。
 モントリオールでの好成績を見てリッキーは著者はドジャースに引き上げることを決心します。それに対してドジャースの選手の中に反対運動が起きそうになりますが、リッキーはそれをあっさり潰してしまいます。しかし、オープン戦で著者は絶不調。本人は「スランプ」とあっさり表現していますが、おそらく慣れない環境と「大リーグ」に適応できるかのプレッシャーと人種差別のプレッシャーとによるものでしょう。白人の新人だったら人種差別のプレッシャーを受けなくても実力を発揮できなくなってもおかしくない状態なんですから。ところが、じっと我慢をしながらプレイをする著者の姿をそばで見、相手チームの汚らしいヤジをずっと聞かされているチームメイトの白人が、相手チームに対して怒鳴り返し始めます。「この臆病者め。野次るなら、言い返せるやつをヤジったらどうかね」と。新聞記者の中にも“味方”が出始めます。人種差別に反対することが、建前や文章だけではなくて、記者としての行動に表れるようになった人たちです。
 もちろん「いやなこと」は山盛りです。嫌がらせの手紙、脅迫状(著者個人に対するものだけではなくて、妻子の殺害予告状など)、ホテルの宿泊拒否、南部出身でありながら黒人と一緒にプレイしている白人選手(当然人種差別をするべきだと期待されている人)に対する個人的攻撃……しかし「良いこと」もあります。チームは一丸となってペナントレースで優勝。著者は新人王を授賞。そして、他のチームも黒人選手を受け入れ始めます。
 しかしこれは“ハッピーエンド”ではありません。いわれない攻撃に耐え続ける「受難者」として著者は大リーグに受け入れられました。しかし「もう我慢しない」と宣言した瞬間(白人だったら「ガッツのある奴」と評価されるのに)著者は「思い上がった黒人」と扱われることになります。「受け入れてやったのだから、そこで満足していろ。それ以上『白人と同じ』を求めるのか」という感情が働くのでしょう。さらに「有名人の代償」が次々著者と一家に襲いかかってきます。
 毎年毎年“戦い”続けた著者は、ついに野球から引退しますが、そこからまた“戦い”は続きます。こんどの“フィールド”は、実業界と社会です。野球の殿堂入りとかドジャースで著者の背番号(42番)が永久欠番になったことは知っていましたが、彼の引退後の社会生活については詳しいことを本書で知ることができて、アメリカ社会についていろいろ考えてしまいました。しかし、大統領選挙で、ケネディーではなくてニクソンを支持して活動した、というのには驚きましたが。著者は詳しく事情を書いていませんが、一体何があったんでしょうねえ。白人だけではなくて黒人も使うことができる「自由銀行」設立にも著者は関与していますが、その「破綻危機」についても率直に語っています。黒人差別の裏返しで、検査官が「黒人の銀行を迫害している」と非難されないために検査を手加減して、実は不良貸し付けが膨れあがっていたのに会長である著者がそれを知らされずにいた、なんて裏事情を聞くとぞっとします。
 かつて「黒人は大リーガーには向いていない」と言われていました。今「黒人は大リーグの監督には向いていない」と言われています。ジャッキー・ロビンソンの“戦い”は、まだまだ続いているようです。救いは、彼の功績を讃えて「42番が大リーグ全球団での永久欠番」とされていることでしょう。これは一つの“宣言”ですが、こういった宣言をきちんとできる度量があるのだから、アメリカ社会はさらに良くなっていくのだろうな、と私には思えます。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年12月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031