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2018年12月18日07:29

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鉄のカーテンの向こう側

 冷戦下の時代、ソ連や東欧でもSFを書く人がいることはわかっていました。作品が“こちら”にも紹介されていましたから。そういったものは「ソ連・東欧のSF」と分類されていましたが、それは西側の作品とは違う一種独特の雰囲気を持っていました。今にして思うと「社会主義政権の気に入らないことを書くとまずい(収容所か刑務所送り、下手したら存在が消滅)」という緊張感がそれらの作品の“背景”となっていたからでしょうが、当時は“鉄のカーテンの向こう側”で実際に人々がどのような生活をしているのかが具体的にわかっていなかったので(だからこそ「鉄のカーテン」だったのです)、私たちは作品に書かれていることと書かれていないことから想像するしかありませんでした。
 なお、今日の読書日記の『ドウエル教授の首』は1926年(昭和元年)の作品ですので、まだ「冷戦」は起きていません。それでもやはりどこか“違う”雰囲気がするのは、気のせいでしょうか。

【ただいま読書中】『ドウエル教授の首』A・ベリャーエフ 著、 原卓也 訳、 東京創元社、1969年(82年8刷)、300円
https://www.amazon.co.jp/gp/product/448863401X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=448863401X&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=066c47e5777dcea8ad5e7cb75b077036
 首から上だけを切り取って生かす研究をしていたドウエル教授は、喘息発作で死にかけたとき、助手のケルンによって首だけの姿で生きるように処置されてしまいます。(首だけの)ドウエル教授とケルンは協力して研究を進めます。目的は、首に別の体を接合して生かすこと。
 ドウエル教授の世話をするために雇われた若い女医マリイ・ローランは、ドウエル教授に同情すると同時にケルンに対する怒りに燃えます。ケルンはドウエル教授に残酷な仕打ちをしているだけではなくて、教授の研究成果を自分の名前で発表しようとしているのです。ということは、ドウエル教授が死にかけた、というのは、ケルンの嘘?
 ここは20世紀前半の小説の“お約束”なのでしょう、マリイ・ローランには、美貌と正直さはありますが、問題解決能力と行動力が欠けています。ある意味、当時の女性の“理想像”と言えそうです(キングコングの手に握りしめられた美女、などもそうですね)。
 当時はまだ臓器移植による拒絶反応などは知られていません(そもそも臓器移植は(輸血以外は)行われていません)から、それについての言及はありませんが、それでもドウエル教授に続いて行われた人体実験での「首」ではトラブルが続出します。単に「つなげばOK」ではない、と著者も思っていたのでしょう。ともかく、医学的なスリラーと、ロマンと冒険と、最後に謎解き、と実に盛りだくさんの内容となっています。「科学(医学)」だけを描くのではなくて「人間の心理」「社会」などにも目配りをしつつまとめ上げた著者の力量は大したもので、90年くらい前の小説なのに今でもちゃんと読めます。すごいなあ。現代の日本作家の本で22世紀にも読まれているものって、どのくらいなんでしょうねえ。


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