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2018年12月15日08:28

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空母

 「攻撃型空母」なんて変な言い方が最近の日本で流行しているようですが、ならば「守備型空母」ってどんなものなんでしょう? 空母は空母だと思うのですが。

【ただいま読書中】『戦う大名行列』乃至政彦 著、 KKベストセラーズ、2018年、880円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4584125759/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4584125759&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=0077bfb31d8b003945446563bcd5f2ac
 「大名行列」は実は「戦闘隊列」だった、と本書は始まります。もちろん参勤交代の時にはのどかな雰囲気ですが、戦国時代には、行軍をしていて敵と遭遇したらそのまま戦闘に移行できるように工夫されていて、始めたのは上杉謙信の「車懸り(くるまがかり)の陣」だ、と言うのです。
 中世の合戦では、各領主が自分の軍隊を引き連れてやって来ました。足利軍とか武田軍と言っても、どんな編制でどのくらいの兵力になるかは、領主が集まらないとわかりません。これを「領主別編成」と呼びます。それに対して「弓兵/槍兵/騎兵」など兵科ごとの編制を「兵科別編成」と呼びます。
 律令国家の時代には軍隊は「兵科別編成」でした。白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた朝廷は、大陸の軍隊と戦うために中国からそのシステムを導入します。しかし交渉で和平が成立、軍は西ではなくて東を目指します。しかし蝦夷は大陸の軍隊とは全く違う戦い方(会戦ではなくてゲリラ戦)をします。そこで健児(こんでい=富裕な騎兵)を中心とする精鋭主義に軍のシステムは切り替えられました。これがのちの「武士」へとつながります。
 中世の武士の戦いは基本的に領主同士の戦いなので、その連合体が作られるときにも「領主別編成」となります。ところが戦国大名に権力が集中するにつれ、軍隊の構造も変化します。大名が扱う人数が増えると、そこには「合理性」が必要になります。また、鉄炮の伝来と(戦争難民から生じたとも言われる)足軽の普及から、個人戦ではなくて集団戦が戦争の「スタイル」になります。かくして「兵科別編成」という“新しい”用兵法が普及しました。これは、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも効果を発し、結果として東アジアの用兵法にも影響を与えるのですが、それは後の話です。
 “新しい戦法”としての「兵科別編成」を最初に実戦で試したのは、武田信玄の大軍を相手として信州上田原で戦った村上義清だそうです。村上義清は敵将を何人も討ち取り総大将の信玄も負傷させる戦果を上げましたが、結局その勢いは続かず、越後に亡命します。そこで義清の「兵科別編成」を上杉謙信は学んだのでしょう。謙信の上洛での行列は、平和的なものであったにもかかわらず「厳粛」「厳重」という印象を都人に与えました。謙信は、本国で用いている「武装行列」をそのまま京都に持ち込みました。5000人の兵士を「一つの部隊」として運用して見せたのです。そして、帰国後に関東に出兵したときには、1万の兵士を「一つの部隊」として運用。見た人はその軍勢を「青龍」「大長蛇」と表現しました。私語一つせず、指揮官の命令一下整然と進軍する越後の軍勢は、関東の人たちには他に表現しようのない異様のものだったのでしょう。さらに「龍」「蛇」という字を選択していることから、その編制が棒状のものだったことが想像できます。
 謙信の「車懸り」の陣を信頼できる史料から著者が復元したものは、先頭から「鉄炮」「弓」「長手槍」「騎馬」となっていて、その順番に戦闘に突入していたようです。鉄炮隊は100人。行進は縦列ですが戦闘が始まると二列の横隊に展開し前列と後列が交互に発射したようです(長篠の戦いの「三段撃ち」ではなくて「二段撃ち」ですね)。この途切れない一斉射撃は、謙信の時代には衝撃的な新戦術だったようで、それでひるんだところに矢の嵐、その間に長手槍隊が接近して突撃。それに続いて騎兵隊が突撃、というわけです。その後ろには大将(謙信)と馬廻(直属の親衛隊)が控えていて、機動的に攻撃します。
 こういった「特異な軍隊」に対しては、他の大名(特に川中島で何回も直接対決した武田信玄)は「対応策」を必要とします。信玄は「軍役定書」を発行し、目標とする武器や人数について通達をしました。これまでは「集まった人数」を前提に作戦を組んでいたのが、戦いの前から「どの兵科を何人揃える」という“設計書”を作っておいてそれをもとに作戦を考える、というパラダイムシフトです。ただし、「義」を唱えての戦いをモットーとする上杉謙信に対して、国盗りが目的の武田信玄とでは、陣立ての思想が違いました。謙信は「戦術」「攻撃」「行軍」ですが、信玄は「戦略」「守備」「待機」が中心思想なのです。
 北条も「謙信の脅威」と「それに対応した武田の軍備増強」を知り、自らの軍の整備を始めます(それまでは、人数も足りず、竹槍で参戦する槍兵や、兜ではなくて布で頭を包んだだけの武者が平気で混じっていたそうです)。謙信軍のような「押前(大将が前で率いるのではなくて、後ろから号令で全体を前進させる)」ができるレベルにまで自分たちの軍のレベルをアップさせようとしたのです。もっとも謙信のようにはできなかったようですが。上杉景勝も謙信のようにはできませんでしたが、それでも兵を鍛え上げ、大坂冬の陣では見事な用兵を見せています。謙信と同様の細長の陣形ですが、状況に応じて諸隊を入れ替えたり横に開いたり柔軟な運用もしているのです。これが大坂に集結した諸大名に感銘を与え、日本中に受け入れられることになりました。
 「泰平の世」でもこの「武装行列」は活用されました。大名の改易とそれに伴う城の請け取りで、幕府は目的の藩の周囲の藩に動員を命令、各藩は臨戦態勢の武装行列を仕立てて城に向かいます。それに対して城兵にできることはほとんどありません。少しは抵抗しますが、すぐに「自落」をし、無人となった城は占拠されました。武力で抵抗しても大阪城の再現となるだけです。この武装行列の陣立て書を見ると、かつての上杉軍の陣立て書と実によく似ています。そしてそれは、参勤交代の時の大名行列ともよく似ているのです。
 ただ、実際に大名行列に参加していた人たちが「自分たちは実戦の練習をしているのだ」なんて意識を持っていたかどうかはわかりません。大名行列は戦国の単なる形骸だったのかもしれません。しかしそれなら、江戸時代の侍はなぜずっとその形骸を保持し続けていたんでしょうねえ。


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