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2018年12月08日08:27

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核抑止

 「核を使いたい」という人同士がお互いに使ったら、「使いたくない」と思う人だけが残るから、もう核を使う必要はなくなるような気がします。

【ただいま読書中】『原爆で死んだ米兵秘史』森重昭 著、 潮書房光人社、2016年、2000円(税別)
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 著者は子供の時に広島で被曝しました。オバマ大統領が来広したとき、平和公園でハグをした姿を覚えている人もいるのではないでしょうか。
 広島のNHKは「原爆の絵」を1974〜5年と2000年に募集しました。写真での記録はほとんど残されていないので、目撃した光景を描いた絵は資料としての価値が高いものでした。その数千枚に著者は目を通し、相生橋(エノラ・ゲイの搭乗員が原爆投下の目標とした、特徴的なT字型の橋)のたもとに米兵が倒れている絵、が14点あることに気づきます。なぜ米兵が? しかも彼に向かって市民が石を投げたりしていた、という話もあります。虐待?虐殺?
 広島市内に連合国の捕虜は(1945年7月27日まで)一人もいませんでした。原爆投下目標に選択された理由の一つです。米軍は戦後も長く「広島には米軍捕虜はいなかった」と主張していました。それが代わったのは1971年、国立記録保存所で一つの極秘書類が機密を解かれてからでした。しかし、米政府の「原爆で死んだ米兵はいなかった」という公式見解とは別に、広島ではまるで都市伝説のように「原爆投下直後に相生橋で米兵が虐殺された」という話が囁かれ続けていました。ただ、場所も人数も日付も死因も、ばらばら。実際に何があったのか、著者は広範な聞き込みを始めます。
 広島市は軍都として長い歴史を持っています。明治六年に広島城内に広島鎮台が設置、明治十九年に第五師団となって施設が拡大します。そういえば日清戦争では大本営が広島に置かれましたっけ。昭和二十年(1945)4月、大本営は本土決戦のために、全国を二分し、東京に第一総軍、広島に第二総軍を置きました。著者は集団疎開をせずに、広島市西部の己斐という町(爆心から2.5kmくらい)にいましたが、周囲のお寺には兵隊が大勢いました。海外派兵のために集結したものの船舶不足で待機状態だったのです。著者が子供心(被爆時国民学校3年)に驚いたのは、彼らが武器を持っていなかったことです。非武装の兵隊を存在しない船で沖縄に運ぶ予定だったって……
 原爆投下目標としてはいくつもの都市が候補とされました。京都はスティムソン陸軍長官の強硬な反対で外されましたが、長崎はグローブス(マンハッタン計画の責任者)の反対を押し切って候補に入れられました。最終的な候補は、広島・小倉・新潟・長崎となり、あとは天候次第(雲量が少なくて効果が確認しやすい状態かどうか)となりました(ただし捕虜収容所が近くにある長崎と小倉より広島が優先されることになります)。候補地には通常の空襲が禁止され、練習のために模擬爆弾(通称パンプキン)の投下があちこちで繰り返されました。模擬爆弾と言うと語感はのどかですが、実際には長崎型の原爆と同じ形・大きさ・重さの火薬爆弾で、通常爆弾が火薬が2トンなのに対してパンプキンには5トンも詰め込まれていたので、通常爆弾より大きな被害を出しました。これが7月20日から日本各地に49発投下されたのです。
 戦争で活躍していた戦艦「榛名」は、沖縄に“特攻"する大和に自身の燃料をすべて提供したため呉港に足止めされていました。他にも多くの艦船が、甲板に木を植えたりして偽装されて呉軍港周囲の島陰に隠されていました。もっとも航空写真ではシルエットが丸見えだったのですが。米軍は徹底した空襲で軍艦を全滅させることにしていました。大破して着底した艦船は、上空からは沈没かどうかわからないため、空襲が繰り返されます。最後の呉沖海空戦は7月28日のことで、日本海軍はほぼ全滅しましたが、激しい対空砲火によって米軍機も、大型爆撃機B−24が2機、艦載機20機が撃墜されました。乗員はパラシュートで脱出、その後広島に送られるかそれ以外(たとえば呉の海軍刑務所や東京)かで運命が大きく別れることになります。著者は彼ら一人一人の運命を丹念に調査し、米軍の公式発表では「機体と共に墜落死」とされていた人が、脱出したがパラシュートが開かず、山中でそのまま死亡したことまで突き止めています。結局生きて捕まった米兵は16人、そのほとんどが広島の中国憲兵隊司令部(爆心から400m)に連行されたのでした。墜落現場で死体となっていた人たちは現場近くに墓が作られましたが、戦後米軍が発掘して骨を持ち帰っています。
 尋問によって憲兵隊は「広島が爆撃禁止都市」であることを知ります。「もうすぐ大空襲がある」と直感した憲兵は、その重大情報を憲兵司令部に報告するために8月5日に上京、おかげで命が助かることになります。なお取り調べの書類は、原爆に焼かれて残っていません。また、収容施設が不足していたため3人の米兵は東京に送られました。彼らも被爆死をせずにすんでいます。
 米軍は「米兵が被爆死した」ことを隠蔽しようとしていました。ところが日本軍ははじめ“水増し"をしようとしていました。九州帝国大学での「捕虜生体解剖事件」の被害者を「九州で捕虜になった41人の内9人は広島の原爆で死んだ」と報告していたのです。
 丹念な調査の果て、原爆によって広島で死亡した米兵捕虜は12人、と著者は確定します。最後に残る謎は「相生橋で米兵が虐殺された」というのは事実かどうかです。人の記憶は混乱します。まして被曝直後、パニックになっている人の記憶は簡単に混乱しているようで、証言は実に様々です。その中で著者はすこしでも真実に近いものを得ようと努力しています。
 中国憲兵隊司令部は爆心から400m、それでも何人も憲兵は生き残っていましたし、捕虜にも生き残っている者がいました(ただしほぼ全員がのちに放射線障害で死ぬことになりますが)。8月8日に八幡爆撃をして撃墜されたB−29の乗員が日本海を救命ボートで漂流していて15日に漁船に発見され、激高した人々にまさに殺されようとしたところを駆けつけた浜田の憲兵に救われて列車に広島で移送され、そこで広島の惨状を目撃すると同時に、被曝した米兵二人の最期に立ち合うことになりました。この二人については死亡診断書が日本語と英語でそれぞれ作成されています。つまりアメリカ政府は「米兵捕虜が被爆死した」事実を知っていた、だけどそれを隠蔽していた、そして隠しきれないと情報を小出しにしたがこんどは隠蔽については頬被りをした(被爆死した兵士の家族に公式には何も知らせない)、という「歴史」を持っています。なお、本書の最後に、広島と長崎、それぞれで死亡した連合軍捕虜のリストがあります。20万人以上もの日本人のリストのほんの一部とも言えますが、それぞれの人にそれぞれの人生があることを思うと、もうこういったリストが不要になる世界が実現できたら、と願います。


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