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2018年12月05日06:40

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言霊

前々回記事(「シューベルト」は‥)では、言葉というのは我々にとって単なる記号以上のものであること述べた。つまり、言葉には何らかの相貌(アスペクト)がつきまとうということである。ウィトゲンシュタインは言葉のアスペクトというものを非常に重要視していた。もし、言葉からアスペクトが失われたら我々の会話も文学作品も無味乾燥なものになると考えていたようである。あたかも、それはコンピューター同士が会話しているようなものだろう。

私が思うには、もし言葉にアスペクトが伴わなかったら、無味乾燥どころか会話自体が成り立たないように思う。我々が言葉をマスターするには、その言葉がどのような局面で使用されるかということを経験しなければならない。どのような局面においても、そこで使用される言葉の解釈の仕方というものは極端に言えば無限にある。一つの言葉に対して相当な場面を経験しなければ、その言葉を使用できるようにはならないだろう。コンピューターのように膨大な記憶量が必要である。

実際には私たちは言葉の意味をそれほど厳格には考えていない。ビジネスの場では、「アジェンダ」、「イシュー」、「エビデンス」、「ステークホルダー」などの言葉が飛び交っているが、辞書などで調べたりしないでなんとなくわかったままスルーしているということはないだろうか。それで大した齟齬も生じないが、時々間違いをすることもある。

私は、「ナイーブ」という言葉を耳にするたびに居心地の悪い思いがする。私達の年配の人間はたいていそれを「繊細な」という人間の性質の意味に受け止める。私も「ナイーブ」はそういう意味だと思っていた。ところが中国の江沢民が来日した時の記者会見で、日本の記者の質問に対して「ユーアーナイーブ」とひときわ大きな声で、しかもなぜか英語で言ったのだ。私はその時初めて、naiveの意味を調べたのであ。辞書には、「純真な、無邪気な」とある。つまり江沢民は、「君たちは無邪気だ(なにも分かっていない)」と言ったのである。アメリカではこの言葉が使用される場合は、どちらかと言うと人を揶揄するようなネガティブなニュアンスがある。

なぜ、それが日本では「繊細な」という意味で使われるようになったか? 日本では純真無垢な人はしたたかではないと言う常識があるのだろう。誰かがある人に対して、「君はナイーブだね」と言ったとする。もしそれが、「君は純真だね」という意味で言ったとしても、そばでそれを聞いた人は言われた方の人を見て、それが「繊細」であるという意味に受け取ってしまうのである。人の性格というのは複雑でいろんな面があるはずなので、性格を表現する言葉については、一度や二度の経験でその意味を決定できるはずがない。にもかかわらず、「君はナイーブだね」の一例だけで、ナイーブに繊細のイメージがまとわりつくのである。強引と言えば強引であるが、私達の内部には「意味に対して親密であろうとする」渇望が確かにある。その渇望が強引にゲシュタルトを構成するのである。またそうでなければ我々はいつまでたっても言葉を使用できるようにはならないのではないだろうか。

そんなわけで、「ナイーブ」という言葉を聞く度に、私の心はざわつくのである。メディアを通じて発信する人は「ナイーブ」を本来の英語の意味で使用している人がだんだん多くなってきた気がする。しかし、受け取る側は「繊細な」の意味で受け取っている人も少なからずいるような気がする。それでも齟齬が生じていないなら、大したことを言っているわけではないのだろう。だが、私の心の中では一つの言葉で2つのアスペクトが生じて落ち着かないのである。ちょうど「アヒルウサギ」の絵のアヒルとウサギが反転し続けているような感じ、と言えばわかってもらえるだろうか‥‥。


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