mixiユーザー(id:235184)

2018年11月15日07:21

101 view

少子対策

 「子供のつくりかた」という本を出版したら少しは役に立ちますかね? だけどそんな本を出した人が「自分は褒められる」と思ったら大間違い。褒められる人がいるとしたら、実際に子供を作った人たち、あるいは、子育ての支援や援助を具体的にした人たちでしょう。

【ただいま読書中】『ザ・タイガース ──世界はボクらを待っていた』磯前順一 著、 集英社(集英社新書0714B)、2013年、780円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4087207145/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4087207145&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=25b55186b9ca6e15b885125ba7c5730a
 昭和20年代前半に生まれた“彼ら"4人は高校生になると流行りのアイビールックで身を固め、京都の街中やダンスホール「田園」で遊んでいました。おりしも日本は、ヴェンチャーズやビートルズによってバンドブーム。4人もバンドを組みましたがヴォーカルとして他のバンドでちょっと歌っていた沢田研二をスカウトします。沢田は高校を中退して参加、バンド「ファニーズ」が誕生しました。大坂のジャズ喫茶「ナンバ1番」の専属バンドとなった5人は3畳二部屋の貧乏下宿で“合宿状態"となり、そこから少しずつ人気を獲得していきます。ビートルズが来日したときは、大阪でステージが済んだらユニフォームのまま夜行列車で上京、武道館の2階に並んで歌、というか、まわりの大歓声を聞いて衝撃を受け、渡辺プロとの契約を獲得、大坂・京都のファンに惜しまれながらメンバーは1966年に新幹線こだまで上京します。長髪やエレキギターは「不良」で、ノンセクト・ラジカルの学生運動が盛んになりつつある時代でした。ポリドールのオーディションにも合格、テレビの「ザ・ヒットパレード」に出演が決まりますが、プロデューサーすぎやまこういち氏が「ファニーズじゃ弱いね。大坂から来た? じゃ、タイガースだ」と「命名」をします。本番(生放送)30秒前のことでした。そのとき一緒に紹介された新人は「ワンダース(尾崎紀世彦が在籍)」と「アンドレ・カンドレ(のちの井上陽水)」でした。すごいメンツです。渡辺プロの売り出し路線は“テレビで作られたアイドル"「モンキーズ」でした。「ザ・タイガース」のメンバーは、不満は感じつつもレコーディングは言いなりで従い「日本語のオリジナル曲」を演奏します。ジャズ喫茶では内田裕也と「ファニーズ」時代の洋楽を演奏していましたが。この二重性が彼らの音楽を膨らませていった、と考えられるそうです。作家も「新しいバンド」で様々な実験をし、それが日本のポピュラー音楽を確立させていきます。なおわざわざ大坂まで見に行って気に入って東京に呼ぶきっかけを作った内田裕也は「内田裕也とタイガース」として売り出したかったのですが、ナベプロの方針と合わずやがて両者は分離させられていきます。
 テレビ「シャボン玉ホリデー」でもレギュラーとなりコントをしたりすることでファンの層は若年層にぐんと広がります。第32回日劇ウエスタン・カーニバルに出た日に発売された「シーサイド・バウンド」は40万枚を超えるヒット。ついにバンドは売れ始めたのです。それも爆発的に。合宿所(普通の安アパート)のまわりはファンに取り巻かれ、メンバーの実家にまでファンが押しかけるようになります。そういえばあの頃は本の奥付に著者の住所や電話番号が堂々と掲載されていたりしていましたっけ。プライバシーとか個人情報とかはあの頃の日本では「何それ?」の時代だったのです。人気の「爆発」が始まったのは1967年3月頃で、雑誌に「グループ・サウンズ(GS)」という言葉が使われ一般に定着するのも同じ時期でした。ただし「グループ・サウンズ」には「ビートルズやストーンズに衝撃を受け、“それ"を自分でも再現したい若手ミュージシャン」と「自分が表現したい楽曲の一部にGSがあるだけ、の作家」とが混在していました。しかもビートルズ自身が、シンプルなリヴァプール・サウンドから技術的に卓越した音楽へと変貌しようとしています。しかも「サイケデリック」に行くにはドラッグの影響を排除できず、だったら日本では「歌謡曲」に向かおうとする人たちがいます。そこでGSには「王子様」「貴公子」といった「型」がはめられてしまいました。
 1967年の日本は……人口が一億を突破、自動車生産量が世界第二位に、交通事故死者数も世界二位に、新潟水俣病訴訟、四日市公害訴訟。高度成長の良い面と負の面とが見られるようになっています。
 1967年の世界は……第三次中東戦争、中国が初の水爆実験、アメリカのデトロイトで史上最大の黒人の暴動、ASEANが発足。
 当時のバンドでは歌い手の地位は低く、しかも沢田は一番年下でしかも一番最後に参加した、ということで、必死で歌っていたんだそうです。そのためか彼は「熱いステージ」と「冷静に自分のステージを観察し、対処する」の二重性を持っていました。ただしその二重性を理解するファンはいなかったようですが。というか、ファンが愛するのは「実像」ではなくて「自分が持つ虚像」だったのかもしれませんが。
 歌に関してプロたちが注目したのは、ザ・タイガースの「音域の広さ」でした。低音(サリー)から高音(かつみ)まで、他のGSにはない広さがあり、しかもアンサンブルが良いのです。しかし、売れるにつれて、グループ内部に亀裂が広がります。「自分たちはアイドルか人間か」「演奏は芸術か仕事か」「自分たちの活動はファンのためかそれ以外(自分、芸術の女神など)のためか」などの“路線対立"です。そうそう「恋愛は禁止か自由か」でも深刻な対立が。とうとう渋谷公会堂で第一部と第二部の間の休憩時間に、殴り合いの喧嘩が起きてしまいます。
 人気が沸騰するに比例するように、ザ・タイガースを否定する声も大きくなります。実際の曲を聴かずに音楽性を全否定し、実際に会わずに人間性を全否定する人たちです。それに対してメンバーは反発を感じ、(それまでと同様に)徹底的なディスカッションをした上で、旧訳聖書をベースにしたアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を発表します。1968年は、キング牧師暗殺、プラハの春、パリ5月革命、ソ連軍のチェコ侵入、ジョンソン大統領がベトナムの北爆停止を発表、日本では日大や東大で学生運動が燃えた、の年でした。そういった時代に対する彼らの思いがこのアルバムには詰め込まれているそうです。
 ザ・タイガースに対する批判として「演奏が下手」というのもあります。これはメンバー自身も自認していますが、「演奏が下手」を理由としてそのバンドを全否定することができるのだったら、ビートルズも否定されちゃいます。彼らも演奏が上手とは言えませんから。だけど……もちろんバンドの演奏は上手な方が良いですが、バンドの価値は“それだけ"でしたっけ?
 内部の対立は高まり、69年春とうとう加橋かつみ(トッポ)の「失踪」と「除名」が発表されます。ずっと前から本人はやめたがっていたのですが、何も知らなかったファンは大ショックでした。ザ・タイガースの仕事を手伝ったりしていた岸部シロー(メンバーの岸部修三の弟)はアメリカでぶらぶらしていましたが、帰国して新メンバーとして迎えられます。しかし「解散」が囁かれるようになり、各メンバーは“その後"の準備をしつつ活動を続けることになります。
 結局メンバーの関係が修復されるのに40年かかりました。関係に傷をつけるのは簡単ですが、それを修復するのは大変です。ただ、修復されてよかった、とも思います。あの世までわだかまりを持っていくのは、しんどいですから。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年11月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930