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2018年10月24日06:51

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全権掌握

 現在のビルマ(ミャンマー)で何か悪いことがあるとアウン・サン・スー・チーさんを責める人がいます。そういった人はたぶん彼女があの国で全権を握っている(だからすべてに責任がある)と考えているのでしょうが、実際にそうなんです? 軍は「私はあなたの忠実なるしもべです」とアウン・サン・スー・チーさんに忠誠を誓ってます? それともそれは表面だけのことで「権力」は実は薄氷の上でバランスを取っているだけ? そのへんを見極めないと、誰を責めたら良いのか、ポイントを外してしまいそうな予感がします。

【ただいま読書中】『独裁者たちの最期の日々(上)』ディアンヌ・デュクレ、エマニュエル・エシェント 編、清水珠代 訳、 原書房、2017年、2000円(税別)
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 本書はさまざまな独裁者の「最期の日々」を、歴史家あるいはジャーナリストが描いたものを集めています。この「二重のアプローチ」で、私たちは「独裁者個人の物語(歴史の真実の断片)」と「独裁者と社会システム」についての新しい見解を得ることができるのだそうです。
 上巻の目次を見て、おかしくなります。「007は2度死ぬ」がありますが、本書では「ドゥーチェ(ムッソリーニ)」も2度、「ペタン元帥」は4度、ポル・ポトは6度も死んでいるのだそうです。さて、その意味は? というか、ペタン元帥は独裁者だったんですね。これはページを開くのが楽しみです。
 ムッソリーニの最初の「死」は1943年7月25日。ファシズム大評議会で首相解任動議が決議され、監禁された日です。「イタリア」は連合国軍と休戦協定を締結。激怒したヒトラーは20個師団を派遣して北イタリアを占領すると同時に、グライダー急襲部隊によってムッソリーニを奪還、彼を「イタリア社会共和国」の首班に据えます。ただのドイツの傀儡として絶望の日々を過ごした後、45年4月28日、レジスタンスの手に落ちたムッソリーニは愛人や部下とともに殺されました。彼らの遺体は翌日逆さづりのさらしものとされます。
 ヒトラーが自殺したのは同年4月30日。4月16日にすでにベルリンでの戦いが始まっていて、20日の「ヒトラーの誕生日祝賀会」の席で「ベルリンを決戦の地とするか、死ぬしかない」とヒトラーは秘書官たちに言っていました。その彼に衝撃を与えたのが、ムッソリーニの死体がさらし者になった、という知らせでした。自分は同じ目には遭わない、とヒトラーは決心します。その傍らでは、「ヒトラーの後継者」になるべくナチス高官たちの権力闘争が繰り広げられていました。当人たちは(文字通り)必死なのですが、傍目には滑稽としか言いようがありません。独裁者の最期は、なんともブラックな滑稽さをもたらすことがあるようです。
 1944年8月20日ヴィシーで88歳のペタン元帥がドイツ軍に連行されました。しかしドイツ軍はペタンを持てあまし、とうとうスイスに放り込んでしまいます。そのまま亡命生活をすることも可能だったはずですが、フランスで自分を被告とした欠席裁判が進行中と聞いたペタンは、弁明のために帰国することにします。もっとも聞く耳を持つ者はいなかったのですが(実はペタン自身も極度の難聴のため、誰の発言もきちんと理解できない状態でした)。
 スターリンの最期の時にも、脳出血で倒れてぜいぜいと息をしているスターリンの枕もとで権力闘争が始まっていました。放置しておけば死ぬとわかっていたベリヤは医者を呼ばせず、裏工作を始めます。結局医者が呼ばれたのは、倒れてから48時間後。なぜそうなったかと言えば、そうなるような「恐怖の構造」をスターリン自身が構築していたからでしょう。
 スペインのフランコも、臨終の場の周囲で権力闘争が繰り広げられます。フランコ自身はファン・カルロス王子を後継者に指名して帝王教育を施していましたが、フランコ主義者の人たちはそれに納得していなかったのです。ここでも醜い争いがひそかに行われていました。


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