mixiユーザー(id:235184)

2018年10月22日06:42

52 view

カルピスの味は……

 私は子供時代にカルピスが大好きでした。それまでの「でかい氷のかたまりを一番上に入れて全体を冷やす“冷蔵庫"」のかわりに電気冷蔵庫が我が家にやって来て製氷室でアイスキューブが作れて氷を店から買わずにすむようになったら、夏には冷蔵庫で冷やした麦茶か冷たいカルピスを飲むのが定番でした。最近それを思い出して久しぶりにカルピスを買ってみたら、あらあら、ビンがずいぶん小さくなっています。でも味は記憶の中のものと同じでした。ただ、子供時代のように思いっきり濃いのではなくて薄めにしましたが。子供時代から変わらないものがあるというのは、嬉しいものですね。

【ただいま読書中】『カルピスをつくった男 三島海雲』山川徹 著、 小学館、2018年、1600円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4093897778/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4093897778&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=ead9ab57938a03451fb975af2b83ab92
 浄土真宗の寺の子として生まれた三島海雲は、日本の青年たちを覆う「大陸進出」の気運に押されたのか、中国で日本語教師として働き始めます。当時「シナ浪人」「大陸浪人」と呼ばれた日本人青年たちは、個人個人ではさまざまな夢を叶えようとしていました。ただそれは、日本の帝国主義が大陸に進出する“先兵"としての役割も持っていました(ヨーロッパ列強の帝国主義が貿易商や宣教師を“先兵"としていたことも私は連想します)。北京東文学社で三島は中国人に教育を与えることでこれまで日本が文化的恩恵をこうむっていたことの“恩返し"をしたいと思っていましたが、同じところで一緒に活動していた日本人の中には、スパイになったりシベリア鉄道爆破を画策する者もいました。中国での活動は思うようにならず、母が死に、三島は一時自暴自棄となったようですが、やがて立ち直り、仲間と日本の雑貨を扱う行商を始め、そこで「コスト」を意識するようになります(それがのちのカルピスの値付けにも反映されることになります)。
 日露戦争で、軍需物資の需要が高まり、三島たちに軍馬の注文が来ます。ただ、中国の馬はすでに財閥に押さえられていました。そこで三島たちはモンゴルの馬を買い付けることにします。ところがその旅は、地図も情報もない冒険旅行でした。そこで出会った乳製品に三島は惹かれます。宿痾だった便秘と不眠が改善し、夏痩せせずにむしろ太ったそうです。三島が滞在したヘシクテン旗(と呼ばれるモンゴルの地方区域)は海抜1000m以上の高原で、清朝時代には宮廷と太い繋がりがあり、この地で産する乳製品は宮廷人に愛されていました。そこに生来の虚弱体質の三島がやって来て、馬の代わりに素晴らしい乳製品に出会ったわけです。さらに、浄土真宗の三島と、チベット仏教を信仰するモンゴルの人たちとは、おそらく共鳴するところがあったはずです(著者はそれを現地で確認しています)。
 「乳製品」には「牛酪(寒天のように固まっているバター)」「乳豆腐(チーズに似ている)」「チャガントス(穀物を混ぜたバター状のもの)」「ジョウヒ(生クリームかヨーグルトのようなもの)」など実に多数の種類がありました。著者はまずジョウヒを食べますが、現地の人がやるように砂糖と煎った栗を入れると味わいがまったく違ったものになるのに驚きます。三島は「初めて食べた乳製品に砂糖を入れた」と記録を残していますが、それはおそらくジョウヒだった、そしてそれがカルピスにつながる、と著者は推定しています。
 三島はまず蒙古の牛を日本に輸入しようとしますが、失敗。ついで、大隈重信の後援でメリノ種の羊を蒙古で育てようとしますが、これも失敗。そこに、妻の病気と辛亥革命。三島は帰国を余儀なくされます。三島はまず「醍醐味」を生産、大正時代の健康ブームに乗り(それまでの「養生」が「健康」に変わる時代でした)、「醍醐味」はヒットしますが、歩留まりが悪くあまりのヒットで原料の牛乳が不足したため生産中止に追い込まれてしまいます。次の「乳酸菌入りキャラメル」は大失敗。しかし三島(と後援者たち)はあきらめません。醍醐味の“産廃"となる脱脂乳を利用しての新製品を考え、試行錯誤からカルピスのプロトタイプが生まれます。それを様々な人に試飲してもらって改良を続けます(試飲した中には、親交があった与謝野鉄幹・晶子夫妻もいて、晶子は試飲したその場でカルピスを詠み込んだ歌を二首作っています)。健康と滋養のために、カルシウムを添加、1919年(大正8年)に「カルピス」が市販されます。すでに日本ではヨーグルトが人気となっていたのですが、カルピスはがんがん売れます。1923年の関東大震災では、カルピス入りの飲料水を4台のトラックに積んで被災者救援に奔走。これは、広告のためでもあるでしょうが、三島の浄土真宗の精神の発揮だったのでしょう。
 他のメーカーも「二匹目のドジョウ」をねらいますが、昭和2年(1927)の森永コーラスがかろうじて生き残っているくらいです。ただ、1924年に(発酵後に加熱殺菌したカルピスとは違う)生菌を使ったタイプの乳酸菌飲料「エリー」が、35年には「ヤクルト」が発売されます。私から見ると、ヤクルトとカルピスは「別の飲み物」なんですけどね。
 カルピスのキャッチフレーズ「初恋の味」は、1920年(大正9年)に採用されましたが、大坂ではそのポスターに対して「色恋は社会の公序良俗を乱すことなので、白日のもとで口にすべき言葉ではない。ポスターや立て看板は自粛してほしい」と警察から申し入れがあったそうです。「そんな時代」だったんですね。
 三島は先見的な人のようで、社会貢献やインターンシップ制度の先駆けをすでに大正時代から始めています。広告も、商品そのものよりは企業PRに注力していました。しかし、経営者としては脇が甘く、1937年に味の素に会社を乗っ取られてしまいます(味の素から見たら、合法的に増資を引き受けて株式の過半数を握っただけですけれど)。
 戦争で原料が統制され,カルピスの生産は落ちますが、ビタミンを添加した軍用カルピスが生産されていました。しかし45年5月の空襲で恵比寿の本社と工場は焼け落ちてしまいます。戦後は倒産の危機を乗り越えて「代用カルピス(砂糖の代わりにサッカリンなどの人工甘味料を使用)」をまず生産しました。美味しくなかったそうです。統制が解除された水飴を用いた「特製カルピス」も返品の山。また倒産の危機となったカルピス社は、三島を代表権を持たない会長に祭り上げ、大規模な人員整理を行います。経営改革は効果を上げ、52年には砂糖の統制撤廃となって「オリジナルのカルピス」が作れるようになり、56年に78歳の三島は社長に返り咲きます。
 三島が何を大切にしていたか、それを回りの人間にどう伝えていたか、そしてその言葉を聞き三島の行動を見た人たちがどのように変わっていったか……本書は「カルピス」の物語ではありますが、実は「人として大切なものは何か」の物語でもあります。そして「三島が大切にしていたもの」が何であるかは、本書から直接読み取ってください。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年10月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031