mixiユーザー(id:235184)

2018年10月20日07:24

131 view

地面師

 積水ハウスが土地所有者になりすました地面師一味の詐欺に引っかかって55億円の損害、だそうです。プロでさえ騙されるのだったら、私のような素人は簡単に騙されるだろうな、とちょっと恐くなりました。まあ、これから土地を買う予定はないのですが。
 ところで、積水ハウスの前に話を持ちかけられた業者は「この人は所有者本人ではない」と見破っていたそうですが、そこでなぜ警察に「詐欺未遂の話があった」と報告しなかったんでしょうねえ。

【ただいま読書中】『戦地の図書館 ──海を越えた一億四千万冊』モリー・グプティル・マニング 著、 松尾恭子 訳、 東京創元社、2016年、2500円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4488003842/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4488003842&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=49f4782cd1c547319ecb0103f7f854f0
 ナチスドイツは1933年に政府公認の焚書を開始、戦争中に1億冊の本を焼いたと言われています。アメリカは「兵隊文庫」を創設。兵士の士気を維持するために、1億冊以上のペーパーバックを発行し無料で配布しました。戦後にアメリカでは一般大衆がペーパーバックを読むようになりましたが、兵隊文庫がその一助になったのかもしれません。1933年にゲッペルスは焚書の灰を前にして「新しい精神が不死鳥のごとく生まれるだろう」と演説しました。彼は「不死鳥」として「ドイツ民族主義」「ナチズム」を想定していましたが、実際には民主主義と自由を希求する精神が甦りました。「ペンは剣より強し」だったのです。
 ローズヴェルト大統領は戦争に備えて徴兵制を敷きました。しかし準備はあまりに不足していて、基地には「何もない」状態で、兵隊の志気は下がりっぱなし。そこで軍は娯楽を提供することにしましたが、多くの兵士が強く望む「プライバシー」に近くてしかも安価なものが「書籍」でした。
 アメリカで、前線の兵士に書籍を送る活動が最初におこなわれたのは、南北戦争の時です。有志からなるいくつかの組織や宗教団体が、古本や自ら作った本を送りました。第一次世界大戦ではこの活動はさらに組織化され、兵士は「本」を高く評価しました。戦後に陸軍省はすべての訓練基地に図書館を設置しましたが、平和な時代にその意味は忘れられ、陸軍図書館は形だけのものになっていました。しかし、図書館学の学位と書籍販売の経験を持つトラウトマン中佐が合衆国陸軍図書館局長に任じられて、事態は変わります。本と予算の不足に悩むトラウトマンに、全米の図書館員が協力を申し出て、一般からの本の寄付運動が展開されました。
 「総力戦」とは「武器の戦い」+「文明・文化の戦い」と言えますが、枢軸側は少なくとも「文明・文化の戦い」では、最初から劣勢だったようです。
 寄付される本が続々集まり始めたとき「真珠湾」。攻撃してきたのは日本なのに、自分は何で大西洋を渡っているのだろう、と首を傾げる兵士のために、図書館員たちは本だけではなくて「戦う理由」も兵士に伝えようとします。「国家防衛図書運動」は「戦勝図書運動」に名前を改め、2週間で42万冊以上の本を集めました。
 「呪われた歩兵」と自称する彼らの心の支えは、故郷からの手紙と、本でした。第一次世界大戦での観察で、本には兵士のノイローゼを予防する効果や野戦病院での回復を助ける効果が認められていました。だから戦場からは「もっと本を」という声が本国に寄せられます。900万冊の本が集まったとき、戦勝図書運動員は大学の卒業式で本を山積みしてもらおうと考えます。ドイツの焚書が大学図書館で始まったことに対する“アンチテーゼ"です。軍の規模はさらに大きくなり、本はさらに求められるようになります。
 41年から陸海軍は雑誌をまとめて購入して兵士に供給していましたが、体制がでたらめで兵士には不評でした(同じものが数百冊まとめて届いたり、ばらばらに届くから連載ものがきちんと読めなかったり)。43年には各誌が入った「セット」が届けられるようになりますが、軍用雑誌は小型で軽量(新聞用紙が用いられました)、人気がどんどん高まります。ならば、本も小型軽量化できないでしょうか。そこで軍は43年から「戦時図書審議会」が出版するペーパーバックをまとめて購入して戦地に送ることにしました。寄付される本は内容も大きさもバラバラで扱いが難しかったことがその理由でしょう。戦時図書審議会はプロパガンダのためのラジオドラマを制作し、米国民なら読むべき「必須図書」の選定も行います。同時に、兵士のために新しい規格の「兵隊文庫」を作り出しました。政府からの紙の割り当て量が減ったことと、軍服のポケットのサイズから、ペーパーバックのサイズが決定されました。製造原価は1冊7セント。のちに大量生産が進むと5.9セントになります。
 兵隊文庫に採用された作品が、本国でヒットする場合もありました。たとえば『グレート・ギャツビー』は著者の存命中は失敗作と見なされていましたが、兵隊文庫に採用されると兵士たちに絶賛され、それが本国に“輸入"されてベストセラーになりました。
 兵士たちは、貪るように本を読みました。人気がある本を、すぐに次の人に渡さなければならないからと徹夜で読むものもいました。輸送船での退屈な日々は当然本で埋められます。そして、Dデイ。オマハ・ビーチへの第一波上陸部隊はほとんど全滅。そこにやって来た第二波の兵隊は、重症を負って進めなくなった隊員たちが崖のすそに体をもたせかけて本を読んでいる姿を目撃しました。
 兵隊文庫でおそらく一番人気は『ブルックリン横町』(ベティー・スミス)でしょう。兵士たちは感謝の手紙をベティー・スミスに書きますが、彼女はそれに律儀に返事をしました(1年でおよそ1500通)。そのやり取りは、心温まるものです。兵士にとって『ブルックリン横町』(とその著者からの手紙)は、失われていく自分の人間性を取り戻すための“武器"だったのかもしれません。
 「こんな本を読みたい」というリクエストも戦時図書審議会に多数送られました。実にバラエティー豊かなリストとなっていて、極限状態で人が「本」に何を求めるのか・本が人に何を与えることができるのか、が少しだけ透けて見える気がします。
 なんだか本を褒めすぎじゃないか、と読んでいて思いましたが、ある陸軍軍医が「マルヌ会戦以降、軍の能力の向上に最も役立ったのはペニシリンであり、その次に役立ったのが兵隊文庫である」と言ったことを知ると、やはり「本」は「武器」でもあったのだ、と思えました。
 戦時図書審議会は「検閲」と戦っていました。審議会は「兵隊が喜ぶもの」「戦意向上に役立つもの」という選定基準だけで幅広く本の選定を行っていましたが、そこに(特に政治的意図から)口を挟みたい人が多くいたのです。しかし「自由のために戦っている国」の中で「検閲」? それでナチスの焚書を非難できるのか?と立ち上がる人たちがいます。「思想と言論の自由」をきちんと行使する人がいる国です。ちょっとうらやましい。
 ドイツが降伏すると、ヨーロッパのアメリカ軍のほとんどは日本への進軍を命じられました。命の心配をしながら兵士たちは戦後についても心配をします。社会復帰ができるだろうか、と。そこで兵隊文庫にはさまざまな業種に関する実用書が加えられるようになりました。中には、戦争で傷害を負った者への就職指南の本もあります。
 戦後も兵隊文庫はすぐには廃止されませんでした。占領地に残る50万人以上の兵士のためです。最後の兵隊文庫が陸海軍に届けられたのは、1947年9月のことです。
 アメリカ政府にとって、1100万人の復員兵と、1700万〜1800万人の軍需産業従事者にどうやって「職」を与えるか、が頭痛の種でした。そこで、復員兵に教育と職業訓練を与える「復員兵援護法(GI法)」を1944年に成立させます。そしてそのガイドブックを兵隊文庫と同じサイズの本にして出版しました。戦後の9年間で780万人の復員兵がGI法に基づいて大学教育や職業訓練を受けましたが、220万人が単科大学に進学しています。彼らは非常に真面目に授業に取り組みしかも優秀な成績を上げたため、一般学生は復員兵がクラスに入ることを嫌がっていました(平均点が上がるからです)。貧富の差や社会階層に関係なく高等教育が与えられたことは、その後のアメリカ社会に大きな影響を与えたはずです。残念なのは、黒人と女性がこの取り組みから除外されていたことです。それに対する社会的反発から、のちに公民権運動と男女同権運動が盛んになったのかもしれません。ともかく、復員兵が熱心に勉学に取り組んだのは、兵隊文庫の影響かもしれません。入隊するまで読書経験がほとんどなかった者が、兵隊文庫で読書習慣がついてしまったのですから。
 やはり「ペンは剣より強し」なのでしょう。


1 1

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年10月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031