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2018年10月02日06:46

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扉の向こう

 閉じた扉の向こうで何が起きているか、それは扉を開くまでわかりませんが、想像することはできます。そして、どんな想像をしているか、によって、想像している人がどんな人間であるか、はわかります。

【ただいま読書中】『第三帝国のオーケストラ ──ベルリン・フィルとナチスの影』ミーシャ・アスター 著、 松永美穂・佐藤英 訳、 早川書房、2009年、2800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4152090251/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4152090251&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=3dd65401902c47bf47b80a84bc89352b
 ナチスが政権を掌握したとき、名門ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は深刻な財政危機に陥っていました。もともと楽団員が出資した有限会社でしたが、地方自治体などからの巨額の補助が必要となっていたのです。ヒトラー政権はこの楽団の価値をきちんと認識していて、内務省と宣伝省が“争奪戦"をおこなった結果、政府が買収しゲッペルスの宣伝省の監督とします。つまり楽団員は1933年から「国家公務員」になったわけです。“ライバル"はウィーン・フィルと(ゲーリング支配下の)「ベルリン国立歌劇場管弦楽団」でした。オケ同士の「自分が上だ」のさや当てに関しても面白い挿話が紹介されていますが、本書の主題は「音楽と政治」の関係です。政権はベルリン・フィルを利用しましたが、オーケストラもまた政権を利用していました。ナチスは一枚岩ではなく、文化と政治の関係は複雑で、単純に「白か黒か」では「第三帝国のオーケストラ」を論じることは困難です。そこで本書は経時的な叙述ではなくてテーマ(「帝国オーケストラ」「楽団員」「財政状況」「演奏場所とさまざまな聴衆」「演奏プログラムの制約、追放された者と賞賛された者」「国際的な演奏旅行」)についてそれぞれにまとめて述べることで「時代とオーケストラ」の全体像を浮かび上がらせようとしています。書く方は大変だったでしょうが、読む方も大変です。常に「全体と部分」を念頭に置きながら読まなければならないのですがその「全体」が読み終わるまできちんとこちらの脳裏に構築できないのですから。
 ドイツに「総統」が生まれたように、それまで民主的な組織だったベルリン・フィルにも「総統」としてフルトヴェングラーが君臨することになりました。フルトヴェングラーにとって楽団は「自分の楽器」で、そのためには「総統」やゲッペルスとも対等にやり合いました。楽団にとってももしフルトヴェングラーが他のオーケストラ(たとえばウィーン・フィル)に首席指揮者として移籍してしまったら、大打撃ですからフルトヴェングラーに絶大な権力をゆだねることに否やはありませんでした。ただ、フルトヴェングラーは自分の個人秘書(ユダヤ人)をオーケストラの事務局長にしようとしましたがこれには楽団内外から強力な反対があり「権力」を押し通すことはできませんでした。
 フルトヴェングラーは「財政」「政府とのやり取り」「芸術」に全責任を負うことになります。さらに「ユダヤ人問題」も彼に重圧をかけます。1933年にベルリン・フィルの楽団員約100人のうち4人がユダヤ人でした。しかしフルトヴェングラーは明確な「反ユダヤ」ではありません。彼の関心事は「芸術の自由」で、しかしこれはナチスとの軋轢を生み、34年に彼は指揮者および帝国芸術院副総裁の職を辞してしまいます。しかし「フルトヴェングラーのかわり」は見つからず、結局35年に指揮者として復帰。「彼なしでのベルリン・フィルはあり得ない」という概念が確立したかのように世間には見えました。しかし実は「フルトヴェングラーのかわり」は見つかっていました。若きフォン・カラヤンです。ドイツは戦争の拡大に突き進み、ベルリン・フィルは定期演奏会と外国での演奏会に忙しくなってマネージャーが力を持ち、フルトヴェングラーは芸術院副総裁職には戻っていなかったため影響力は使えても公式の権限を持たず、楽団はナチ政権に翻弄されるようになります。
 フルトヴェングラーはユダヤ人の楽団員の地位を守ろうと努力していました。ただしこれは彼が「親ユダヤ」だったからではないでしょう。上にも書きましたが彼が最重要視するのは「芸術」で「腕の良いユダヤ人」と「政治的には“正しい"が腕は悪いアーリア人」がいたら、当然前者を選択する、というだけだったのです。しかし官僚組織は巧妙に圧力をかけ続け、一人ずつユダヤ人楽団員は外国に去って行きます(有能だから、ドイツ以外なら職は見つかるのです)。フルトヴェングラーがナチスに“抵抗"したのには、「芸術上の小物が大物(フルトヴェングラー自身)にえらそうに物を言うことに対する反感」も作用していたのかもしれませんが、そのことについては確証はありません。
 オケは外国でも盛んに演奏をし、これはオケの財政を改善しました。ただしどこで演奏するかは宣伝省がプロパガンダ上の効果を重視して決定していました。また、1939年までおこなわれたイギリスやフランスでの演奏旅行では、「ドイツ人の優秀さ」を印象づけることが義務づけられていました。音楽を「武器」としての「戦争」がすでにおこなわれていたのです。政治家や軍人にとって戦争は「ゲーム」かもしれませんが、芸術家にとってこういった扱いは侮辱じゃないか、と私は感じるんですけどね。やがて演奏できる場所は少しずつ狭まっていきますが、1945年1月22日と23日にフルトヴェングラーはベルリンで最後のコンサートをおこないます(その直後、ウィーンで指揮した後プラハ経由でスイスに逃亡)。ベルリン・フィルがアルベルト・シュペーアの指揮で4月12日と14日に演奏したのは「ドイツ・レクイエム」(ブラームス)と「死と変容」(リヒャルト・シュトラウス)でした(ヒトラーが死んだのは4月30日です)。こんなぎりぎりまで「仕事」をしたとは、楽団員のプロ根性に私は驚きます。
 戦争中に、アメリカでは野球が続けられ、ドイツではベルリン・フィルが演奏を続けていたわけです。では、日本では何が続けられていたんでしょう?


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