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2018年09月30日11:43

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アスペクト

中島敦の「文字禍」という短編がある。その中で、明らかにゲシュタルト崩壊をほのめかすような記述がある。

【 一つの文字を長く見つめている中に、いつしかその文字が解体して、意味のない一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集まりが、何故、そういう音とそういう意味をもつことができるのか、‥‥】

この物語では、上記の経験から老儒ナブ・アヘ・エリハは文字の霊が存在することを認めることになる。それが本当に霊であるかどうかはともかく、私達が読書する時の体験を振り返ってみても、無意識のうちに文字の中に記号以上のものを認めていることは間違いない。
交錯する線の組み合わせの中に文字霊がある。音の組み合わせの中には言霊がある。私たちは記号の組み合わせの中になんらかの相貌(アスペクト)を読み取るように出来ている。それはおそらく、私達が自由に言語を使いこなせることや思考できることへの要請からきているのだろう。

もう何十年も前になるが、あるときから若者が「うざったい」という言葉を使用しだした時、すごく違和感を感じたことを覚えている。どういう意味だと訊ねても、どうも要領を得ない。どうやら「うっとうしい」と同じようなニュアンスらしいが厳密な違いというものは言い表せないらしい。おそらく、若者は一二度この言葉を聞いただけで、そのニュアンスを把握する。厳密な意味についてなど考えたりしないまま、言語ゲームを始めるのである。

ウィトゲンシュタインは言語のアスペクトを非常に重要視していた。それなくしては言語ゲームというものは成り立たない。もし、私達が言葉を使用状況から厳密に意味を特定しなければならないとしたら、私達には自分の中の辞書をつくるために、膨大な経験と解析能力が必要になるに違いない。
言葉をしゃべるにしても、状況に合わせて、自分の中に蓄積された辞書の中からコンピューターのように論理に従って適切な言葉を検索しなくてはならない。とても自由な会話など不可能なことだろう。

それにしても、中島敦という人の教養の深さにはただならぬものがあるような気がする。33歳の早世というのはいかにも惜しい。私は既に彼の2倍以上生きているが、奥深い教養の上澄みのような彼の文章に比べると、私の文章が賤しく見えてくるから情けない。天才とわが身を比べてみても仕方がないが、もう少し精進してみようと思う。
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