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2018年08月29日07:05

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厚労省を調査するのは、誰?

 民間企業に「障害者雇用をしろ」と旗を振っていたはずの中央官庁や全国の自治体が、自分たちは障害者雇用をちょろまかしていたそうです。で、“元締め"の厚生労働省が調査をしているそうですが、厚生労働省自身も「身に覚えがある」わけです。だとしたら、発表された「数字」の信頼性は、一体どのくらいなんでしょうねえ。今までの省庁の「伝統」から言ったらしばらく経って「実はまた別の書類が出てきました」になるんじゃないの?

【ただいま読書中】『米墨戦争前夜のアラモ砦事件とテキサス分離独立 ──アメリカ膨張主義の序幕とメキシコ』牛島万 著、 明石書店、2017年、3800円(税別)
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 「アメリカには3つの『リメンバー』がある」と本書は始まります。「真珠湾」は私も知っていますが、残りの二つは「アラモ砦(1836年)」と「メイン号爆破(1898年)」だそうです。
 私にとって「アラモ砦」は「デイビー・クロケット(の歌)」くらいしか思いつけないし、「メイン号」はキューバの歴史の本でそんな名前が出てきたなあ、程度の教養しかないので、とりあえずアラモ砦について知ることから始めることにしました。
 1821年スペインから独立したメキシコは、面積ではUSAよりも大国でした。領土のテキサス(当時はただの荒野)を開発するためにアメリカからの移民を大量に受け入れましたが、やがて入植者は分離独立運動を始めます。それに対する弾圧の“記念碑"となったのが「アラモ砦」です。
 アメリカ独立期、連邦派と州権派の対立がありました(これがのちの南北戦争の遠因となります)。「ホワイトネス」(白人の優秀性とそれに付随した人種差別思想)が興隆し「野蛮人(アメリカンネイティブ)」は「征服」「教化」の対象でした。そこでミシシッピー川以西に白人が進出し、それによって「白人国家」が強くなることで連邦制を維持しようとする動きが生じます。しかし1819年アダムズ=オニス条約で、米国はスペインからフロリダを割譲されるかわりにテキサスへの進出を断念することになっていました。また、衰退するスペインに代わって中南米支配を英国が目論んでいました。アメリカとしてはメキシコはともかく英国との正面対決は避けたいところです。
 しかしテキサスには進出をしたい。そこで「国」としてではなくて「民間人」が進出することにします。「アメリカ」では望めない広大な土地が得られる魅力が、多くのアメリカ人をテキサスに引きつけました。しかし急激な「アメリカ人」の増加に危惧を抱いたメキシコは、1829年に奴隷制の禁止、ついで30年にアメリカからの移民を禁止します。しかしアメリカからの不法入国者はどんどん増えていきました。
 メキシコでは、1824年に立憲君主制から連邦制に基づく共和制国家となりましたが、当然のように国内は政治的に大揺れに揺れていました。テキサスの独立運動はその「揺れ」の一つ、と見ることも可能です。ただ、USAとメキシコという、お互いに“若い"共和国の“境界"に位置していたことが、テキサスの運命を左右することになります。
 メキシコから見たら、テキサスは単なる“僻地"で特に魅力はありませんでした。しかしその分離独立運動は「反政府運動」ですから、弾圧の対象となります。さらに政権の基盤は脆弱で、大衆迎合的な政治となり、ついに連邦制は廃止が決定されます。しかしそれは、テキサスに直接の影響を及ぼすことになりました。「中央vs地方」「地方の軍閥の対立」「地方の政府支持派と反政府派」などが絡むのでもう何が何だかわかりません。しかし混乱しきった状況は、テキサス独立を目指す「アメリカ人」には絶好の機会でしかありませんでした。騒動は暴動に、暴動は蜂起へとエスカレートします。
 テキサス人民軍(入植者からの志願兵と不法にやってきた義勇兵)は、鎮圧に来たコス将軍の軍を破り、コス将軍はアラモ砦から撤退しました。テキサス軍はそこからマタモロスに遠征を試みますが、アラモ砦の守備は手薄となりました。そこにメキシコ軍が再度やって来ます。テキサス軍の指揮官はアラモ砦の爆破を命令しますが、現地の守備隊はそれを拒否。メキシコ軍が第一の目標としているのがわかっていて、そこで頑張ろうとしたのです。
 アラモ砦の籠城者たちは、アメリカの歴史では神格化されています。うっかり“悪口"を言ったらエラいことになるでしょう。しかし、その実態はどうだったのか、と研究は当然されています。それによると、アラモ砦を最後まで防衛して絶命した180余名のうち4割程度が不法戦士だったようです(ニューオーリンズで登録してからテキサスに入った人が多くいました)。しかし、2000人以上のメキシコ軍に対して、あまりに寡兵です。再三の援軍要請は無視されましたが、これって、見殺しってこと? さらに、籠城した戦士たちの背景に「それまでの人生での大きな失意」がちらちら見えます。アラモ砦では「メキシコ軍が虐殺をした」が普通の見方ですが、籠城側は最初から死を覚悟し味方はそれを見殺しにしたのかもしれません。
 なお「砦」と言いますが、もともとは伝道所、のちに爆薬庫として使用された駐屯地で、「城」でも「砦」でもありませんでした。そこに「籠城」するのは、戦術ミスと言えるでしょう。実際、戦闘開始から1時間で決着はついています。
 戦いのあと、アメリカでは、アラモ砦で「虐殺」をおこなったメキシコの大統領・最高司令官のサンタアナの非人道的な「残虐性」が喧伝され定着しました。さて、実際のサンタアナはどんな人? 実は彼は、奴隷解放論者で、実際にテキサスでの奴隷売買も禁止していました。アラモ砦に籠もった白人が、奴隷を所有し先住民を虐殺していたことを思うと、私の頭の中にはでっかい疑問符が生じます。ついでにサンタアナの立場からこの事件を見ると、「義勇兵の虐殺」は「不法武装入国者や国家反逆をした人間の即決処刑」になります。私は別にサンタアナの弁護士をするつもりはないので、これくらいにしておきますが、当時の白人から見たら「メキシコ人」が何か言ってもそもそもその人は「真っ当な人間」とは扱うべきではない、ということだったのかもしれません。おっと、過去形ではなくて、トランプ大統領などは現在進行形でそう考えていそうですね。
 のちにサンハシント(英語ではサンジャシント)の戦いで「アラモを忘れるな」のテキサス軍の「報復」によって630人のメキシコ兵が虐殺され、テキサスは独立して「テキサス共和国」になりました。すぐ「アメリカ」にならなかったのは、スペインとの条約を形式的に守るためかな。そして9年後にアメリカに併合、それからアメリカはテキサスよりさらに西の広大なメキシコ領を狙っての米墨戦争を起こします。そのときも「アラモの砦」は一種の「神話」として機能しました。
 そういえばハワイ王国でもたしか最初は「アメリカ人の移民」が入って、そして……というやり口でしたね。だから逆に「他国からの移民が個人的なものならともかく、組織的なものは排斥する」のかもしれません。自分たちがやったことを自分たちにされるのは、これは嫌でしょうから。



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