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2018年08月03日06:33

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キを抜いてはいけない

 「高き望み」は良いものですが、うっかり「き」が抜けると「高望み」になってしまうのが困りものです。

【ただいま読書中】『「子どもがケアする世界」をケアする ──保育における「二人称的アプローチ」入門』佐伯胖 編著、 ミネルヴァ書房、2017年、2200円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4623081087/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4623081087&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=61c15f9d226e357afce325b060bcb64c
 「人は誰かをケアしなければいられない存在である」が本書の大前提です。幼児から高齢者まで、人は「自ら良く生きよう」とするとき、それは「他者との関係の中」での行為となります。すると自動的に「他者をケアする」ことは「他者とともに生きる自分も良く生きることができる」ことになる。生後6箇月の乳児を対象とした実験(“援助"をするブロックと“意地悪"をするブロックの動画を見せる)からも彼らが「ケア」を肯定的に捉えていることがわかっているそうです。この相互作用の「ケア」を著者らは「ケアリング」と呼びます。
 そこで著者らは「保育園でまず重要なのは、なにかを『してあげる』ではなくて、子どもが何をケアしているのかを観察して見極めること」とします。
 著者は「ドーナツ論」を以前から提唱しているそうです。「I(私)」はまず「YOU(あなた的存在の人・もの・こと)」と出会い、そこで「I」は親しく馴染むまで「YOU」をこねくり回します。それができたらこんどは「THEY(文化的な外界)」と出会うことになります。これは、人の成長でもコマ回しの習得でもハイテク機器の操作の習熟でも言えることだそうです。で、もしも「YOU」と出会えなかったら、「I」はいきなり「THEY」に出会ってしまい、それが内包する「べきである」「ねばならない」を突きつけられることになります。
 さらにヴァスデヴィ・レディの「二人称的かかわり」という言葉が紹介されます。発達心理学者は子供を「モノ」のように観察する(三人称的アプローチをする)のですが、子供は親との「二人称的かかわり」の中で育つのだから、学者も「二人称的かかわり」をしなければ子供の発達についてはきちんとしたことはわからない、という主張です。(この主張については『驚くべき乳幼児の心の世界』を読むと良いそうですが、そのためにはデカルトなどの予備知識も必要になるそうです。他の本を読む前にとりあえず本書で「入門」をしてからでも良いかな?)
 なお本書では「共感(相手の喜びや苦しみなどの情感(感情の裏に潜む思いも込み)を自分の心を空にして受け止める)」と「同感(相手の感情を自分を基準に推し量る)」とをきっちり区別しています。「同感」は「二人称的かかわり」ではなくて「一人称的かかわり」ですから。
 「二人称的かかわり」と「二人称的アプローチ」とは本書では区別されています。人とのかかわりと、それを研究する態度の違い、と言うことなのでしょうが、情動と論理とをどこでバランスさせるか、に相当な苦労が必要そうな気がします。
 「子供の遊び」の観察で重視されているのは「誰と遊んでいるか」です。しかし著者は「何とどう遊んでいるか」も重要視しています。子供は「もの」とも「二人称的」に遊んでいるのだそうです。ピアジェの研究で「わが子がモノを落とし続けるのは、モノはどのように落とせるのか、自分がどのように落とすとどのように世界が変化するのかを確認している」と述べたことがここで紹介されます。ここでもピアジェがわが子と「二人称的かかわり」をしたからこそ、そのような「子供の目的」が発見できたのかもしれません。単に反復を楽しんでいるだけ、という可能性もありますけどね。ただ、子供が「もの」との関りを楽しむだけではなくて、それを観察する人との関係もそこに取り込んでいる、という指摘は、自分が子育てをしているときに知っておきたかったな。どう考えても私は「一人称的かかわり」をやっていたようなので。
 たとえば「物のやり取り」も「二人称的かかわり」の視点からは行為の裏側の「意図」も見えてきますが、それは「両者の意図」「相手の意図の予測」という極めて高度で複雑な構図となっています。
 話はさらに進みます。「モノとのかかわり」は豊富なのに「人とのかかわり」がほとんどない自閉症児の登場です。ここでも著者は「二人称的かかわり」から「その子の意図」を読み取ろうとします。そして「彼らは『(予測困難な)他者の意図』が読み取れないから、予測が比較的簡単なモノとのかかわりに向かうのではないか」という仮説を立てています。となると、保育者は「モノとのかかわり」をそのことの共通の“話題"とすることでその子に関わることができるようになるかもしれません。そして、どんな形でも「他者と関わる」ことが始まった自閉症児には、次の段階「他者の情感の読み取り」ができるようになるかもしれません。
 しかし、本書に登場する自閉症児のタツヤ君が見ている世界(だとこの章の著者が捉えているもの)は、私にはなかなか衝撃的でした。今目の前にある世界も、人によってここまで姿が違うのか、と(たとえばドアの開閉をタツヤ君は「出た(ドアが目の前に出現した)」「行っちゃった(ドアが消滅した)」と見ているのです)。この子の時間軸や空間軸はどうなっているのだろう、と私は非常に不思議に思いました。そしてその「世界」の中の「人間」はどのような扱いなのだろう、とも。
 今私の目の前にある「世界」は、ある意味「驚きを欠いた予定調和的な慣れ親しんだ世界」です。だけど幼少期、世界は驚きに満ちていたはず。私はその記憶を失ってしまいましたが、「かつて世界はそうだった」という知識だけは持ち続けたいと思います。失ってはいてもその記憶もまた私自身の一部なのですから。


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