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2018年07月31日06:54

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血税

 「血税」が「税金として血液を搾り取るもの」だとしたら、「血管」は「血で作られた管」ということに? ただ、ドラキュラが支配する国では「血税」は実在しそうですね。

【ただいま読書中】『徴兵令制定史 増補版』松下芳男 著、 五月書房、1981年、8300円
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 本書はもともとは昭和17年11月に「徴兵令70周年」に合わせて出版された本です。だから中身はばりばりの旧字旧かなです。
 徴兵令は明治六年に発布されました。「明治は遠くなりにけり」ですが、本書刊行時にはまだその当時のことを記憶している人が生存していたはず。だからでしょうか、大村益次郎や山縣有朋のことも著者はまるで知人のような雰囲気で書いています。
 もともと徴兵令の原形は坂本龍馬の建白書ですが、その目的は「天皇の親兵」でした。それが奇形的に発展したのが新撰組かな。
 戊辰戦争後、新政府が困ったのが軍備が脆弱なことでした。欧米と比較して遅れている、という意味もありますが、そもそも「日本軍」がないのです(あるのは「薩摩軍」とか「長州軍」だけ)。大村益次郎は明治二年、わずか46歳の働き盛りで暗殺されてしまいましたが、彼がおこなった明治初年の兵制改革は、彼の死後になって少しずつ形を為していきました。まずは兵式の統一。長州はイギリス式、紀州はドイツ式、会津は長沼流、他は大体オランダ式だったのを、幕府のフランス式に統一してしまいます(後年それはドイツ式に変更されます)。また「親兵」を大村は「朝廷の警護兵ではなくて、朝廷直属の軍」と定義します(こちらは大村の構想がそのまま生き残りました)。
 武士は徴兵制に反対をしそうですが、長州藩は実は徴兵制に賛成でした。下関戦争と対幕府の戦いで、武士だけでは戦力が明らかに不足する現実に直面していたからです。さらに「武士」制度ではその家族の生活まで終生保証する必要がありますが、徴兵なら短期間だけ訓練のコストをかけて在郷に戻せば予備兵となり、いざという時には本当に低コストで大軍を組織することができます。その「いざという時」は実はすぐ目の前に迫っていました(西南の役を大村は生前に予想していたようです)。また、大村の跡を継いだ山縣には、各地で起きる不平士族の反乱を鎮圧するためにも、庶民を中心とする軍隊を必要とする、という切実な理由がありました。
 山縣が武士の特権を否定する徴兵令を構想できたのは、彼が足軽の出身で「武士の特権」とは無縁の存在だったからではないか、と著者は考えています。そういえば大村益次郎も村医者の息子でしたね。二人とも「武家を否定しても失うものはない」という意識だったのかもしれません。
 明治三年、政府は徴兵令の予告と言える「徴兵規則」を各藩に伝達します(実際にその中で「徴兵令の予告」をしています)。ただこの「規則」が「徴兵令」と根本的に違うのは「各道府藩が徴兵をする」としている点です。地方自治の徴兵制度? この徴兵規則、各藩には無視され、中央政府も熱心に押そうとはせず、いつの間にか“なかったこと"になってしまいました。まだ政府にはそこまでの「力」はなかったようです。
 明治四年廃藩置県。諸藩の常備兵が召集されて鎮台兵とされます。ここから明治政府は本気で徴兵令施行を目指します。ただ政府内部には異論もあったのですが、明治五年に山縣は意見「主一賦兵論」を提出。これは後の「徴兵令」とほとんど同じ内容のものでした。明治六年十一月二十八日、明治天皇は「全国徴兵の詔」を発します。太政官はそれを受けて徴兵の告論を発します。どちらも古の日本にまで遡り、次いで四民平等の精神を訴え、ずいぶん格調高く「徴兵の必要性」を訴えています。それに対して士族は「特権剥奪反対」の立場から、庶民は徴兵を一種の「税金」と捉え「血税反対」と言って、全国的に「徴兵令反対運動」が巻き起こります。
 明治五年は十二月二日で終わり、翌日から太陽暦での明治六年が始まります。その一月十日に徴兵令は発布されました。徴兵免除の資格として、一家の主人・嗣子・独子・養子などがあるのは知っていましたが、身長が五尺一寸(曲尺)未満も免除されていた、ということは、当時の日本人の体格がずいぶん小さかったこともわかります。なお、砲兵になるためには五尺四寸以上、騎兵・工兵・輜重兵になるためには五尺三寸五分以上の身長が必要とされています。また「代人料」が二百七十圓と規定されていて、つまり金持ちは徴兵免除が可能でした。高等教育を受けている者も免除ですが、これまた身分か金がある層が対象のようです。このへんは不平を抱く有力者への懐柔策ということでしょうか。
 徴兵制度を始めるだけでも大変そうですが、始めたら始めたで、こんどは「同じ部隊に属する士族出身者と平民とをどう調和させるか」が大問題になります。政府要路にある武士出身者たちもまた「平民が兵隊として使い物になるわけがない」と大反対の嵐です。長州の人たちにも大反対の人がいるのですが、奇兵隊は無力だった、という認識だったのかな?
 ちなみに、西郷隆盛が徴兵令に対して抱いていた意見は「頗る不明瞭」だそうです。誰が行って熱心に論じても「ふむふむ、ごもっとも」などとだけ言って本心の吐露がなかったため、行った人はみんな「西郷は自分に賛成してくれた」と思っていたみたい。
 反対運動や抵抗(徴兵忌避の様々な手口が紹介されます)もありましたが、少しずつ徴兵令は日本に定着していきます。そこに“試練"を与えたのが明治十年に勃発した「西南戦争」でした。徴兵によって作られた軍が、ちゃんと機能するかどうかの“試金石"です。“賊軍"一万三千はまず熊本城を抜いて本拠としようと進軍。それに対して熊本鎮台の歩兵第十三連隊と砲兵第六大隊などの二千数百人に加えて小倉の歩兵第十四連隊331名と警視隊600名が熊本に入城します(歩兵の6割くらいが徴兵によるものと推定されています)。籠城策が採られましたが、それは「多勢に無勢」という事情以外に「徴兵に対する不信感(どうせ弱卒に違いない、という思い込み)」も作用していたようです。中央では旅団が泥縄式に次々編制されて九州に送られました。面白いのはその中に「新撰旅団」があることです。明治初めに「新撰組」は“悪役"ではなかったのかな? ともかく兵士が足りないため、山縣は徴兵の徹底を進めます。同時に「巡査(旧士族が多くいました)を臨時の兵隊として使う」という策も用いました。
 この戦いで徴兵が腰抜け揃いだったら、「やはり兵隊は士族に限る」となったかもしれません。そうしたらその後の日本は今とは違った形になっていたことでしょう。兵隊不足で悩む帝国日本……どんな進路を進んでいたんでしょうねえ。


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