mixiユーザー(id:235184)

2018年07月29日08:12

73 view

西から東

 テレビでの全国版の天気予報は大体「西から東」に各県の情報が伝えられます。これは「日本の天気が西から東に移っていく」ことの反映でもあるでしょう。だけど今回は常識外れに台風が東から西に走るので、それに合わせて天気予報も「東から西」に伝えたら、台風の移動についてもイメージがある程度掴みやすくなるのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『日系人戦時収容所のベースボール ──ハーブ栗間の耀いた日々』永田陽一 著、 刀水書房、2018年、2000円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4887084390/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4887084390&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=4fb8b7cce41a37fab9cf4f33af0ac1ff
 日本軍による真珠湾攻撃から約1箇月後、大リーグコミッショナーの「戦時に野球を続けて良いものか」の問い合わせにローズベルト大統領は「野球を続行することはアメリカにとって最良である」と“青信号"を返しました。野球は国民的娯楽で国民の士気の維持に役立つ、という判断です。そのため、多くの選手を戦地に送った大リーグやマイナーリーグは、戦時中も活動を続けました。その「国民的娯楽」は、「真珠湾」によって敵性国民とされた日系人でもやはり人気でした。
 もともとアメリカでの日系人は差別の対象でした。19世紀の中国人差別に続いて20世紀には日本人差別が露骨におこなわれ続け、「一世」にはアメリカ国籍は与えられず、アメリカ生まれの「二世(定義上は立派な“アメリカ人")」に対してもその差別の手は緩みませんでした(だからこそ「真珠湾」であっさりと「日系人」に対する人権侵害が平気でおこなわれたわけです)。
 1989年、著者は「ジミー堀尾(戦前にアメリカマイナーリーグと日本で活躍したハワイ出身の日系二世外野手)」の足跡をたどる旅に出ました。そこで最後にたどり着いたのがカリフォルニア州サクラメントの州立図書館ですが、そこで紹介されたのが「ハーブ栗間(ハーバート・ムーン・栗間盛雄)で、彼の話に著者は引き込まれてしまいます。
 戦前にイチゴ農家を営んでいたハーブは、日系人社会ではその名を知られた名投手でした。しかし「真珠湾」で栗間一家は仮収容所としてフレズノ競馬場に急ごしらえされたバラックに押し込められます。将来を悲観したハーブですが、そこに「野球をしよう」と声がかかります。娯楽としての意味もありますが、収容所に強制的に監禁された人々に希望を与える意味もありました、というか、野球をしたい人間はどんな環境でも野球をしたいのです。そこでまず野球場を建設します。ひとりの人間がトウモロコシ畑をこつこつ切り開いて「フィールド」が作れるのですから(映画『フィールド・オブ・ドリームス』、小説『シューレス・ジョー』(ウィリアム・パトリック・キンセラ))、様々な才能が集められた収容所ではそれは割と容易なことでした。もともと日系人社会での野球は地域対抗だったので、それがそのまま収容所での野球にも持ち込まれました。栗間が属する「フローリン」チームは、栗間のピッチングの威力もあり、リーグ戦でダントツの成績を上げます(一軍クラスのAリーグは6チーム(1チーム15名)、二軍クラスのBリーグは8チーム(1チーム20名)で構成されていました)。あまりにフローリンが強いので、「フローリン」対「オールスターズ(フローリン以外のチームからの選抜メンバー)」のエキジビションゲームが3000人の観客を集めて開催されます。
 42年10月リーグ戦は突然終了します。「戦時転住局」が突貫工事をしていた収容所が完成してそこに移住させられたのです。収容所は10箇所ですが、どこも辺鄙な荒れ地や湿地ばかり。そういえばアメリカン・ネイティブの「保護区」も砂漠ばかりだったりでしたね。当時のアメリカ人の性向が窺えます。列車に缶詰での4泊5日の旅は快適とはほど遠いものでしたが、ナチスがユダヤ人に強いたものよりははるかにマシだったのが慰めと言うことは可能……かな?(比較の対象が極端すぎましたかね) そして、送り込まれたジェロームの強制収容所で、栗間たちはは労働をするだけではなくて、やはり野球を始めます。野球に夢中になっていれば暴動にならずにすむ、という計算か、あるいは単に野球好きが戦時転住局にも揃っていたのか、野球場づくりに米当局も協力的でした。ただ、「収容所の中で衣食住を米政府に補償されてぶらぶら過ごしているだけの敵国人」に対するアメリカ人の反発はとても強いものでした。そんなにうらやましいのなら、自分も日本に渡って収容所に入れてもらったら良いのかな?
 怒りと屈辱に満ちたありあまる時間を潰すためには、何でもできることを見つける必要がありました。その一つが野球です。
 ハワイはあまりに日系人が多いため強制収容所を設置してそこにすべての日系人を入れることはできませんでしたが、それでも戦前から目をつけられていたリーダー格の人たち1000人以上が米本土の収容所に送られました。そこで「本土の地域(町)対抗」だけではなくて「ハワイ対米本土」の日系人野球対決も行われることになります。ただハワイ出身者の選手層は薄く、チームは大敗が続いてしまいました。そこに、第100歩兵連隊(ハワイ出身の日系兵で構成された部隊)の野球チーム(腕はセミプロ〜プロ級)が他流試合を申し込んできます。
 野球の話から離れますが、南北戦争の時の黒人部隊(奴隷のくせに自由が欲しいなら戦って見せろ)とこの日系人部隊とは、白人の差別の論理が平気で倒錯して適用される(差別しているくせにその力に頼ろうとする)点がなんともみっともなく感じられます。
 第100歩兵連隊の野球チームには、ハワイリーグの最高レベルの選手が目白押しで揃っていました。そしてその試合は、「アメリカ」から隔離された閉鎖空間で、これから死にに行く人たちと、少なくとも収容所内では命は保証されている人たちとの、不思議な雰囲気の交流となりました。
 「鉄条網の中で野球を“楽しんでいた"」ことに否定的な意見もあるそうです。しかし、そういった環境でさえ楽しめること、それが人間の強さでしょう。そして「楽しんでいたこと」を問題にする人が「そういった環境」をもっと問題にするかどうか、それがポイントじゃないかな。



0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年07月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031