西日本大豪雨のさなか、自民党議員が赤坂で「大宴会」をしていたことが批判されています。
私は宴会そのものを批判する必要はないと思います。集まって酒を飲んで大騒ぎをするのは国民の自由です。批判するとしたら「国」を動かす議員たちがその国の一部が大被害を受けているにもかかわらず「俺たちは首相と楽しく飲んでるぞ、ほほーい」と子供じみたことをSNSにアップしたこと。さらにそれが批判されたら「僕ちゃん知らなかったんだもん。僕ちゃん悪くないもん」と子供じみた言い訳をしていること。
で、真っ当な政治家だったら「それは政治家としてまずいぞ、反省して成長しろ」とやるだろうに、麻生さんまで「そうそう、僕ちゃんたちは悪くないもん」とかばって見せています。私は昭和の価値観で育った人間なので、そんなのは非常に見苦しい態度だと思うのですが、そうは思わないのが平成の価値観なのかなあ。
【ただいま読書中】『居眠り名棋士』トマ・エージーエフデー 著、 ブルネ陽子 訳、 総合法令出版、2010年、1300円(税別)
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目次:「居眠り名棋士」「からい対決」「応手」「当たり!」
フランス人の著者が囲碁を知ってその魅力に取り憑かれ、それをテーマに書いた短編集です。
最初の作品は奈良時代、次は平安時代、そして源平合戦の時代、最後の一編は江戸時代直前が舞台となっています。
「因果応報」「忍耐」「勤勉さ」などが“教訓"として示されるのですが、それが実に露骨に物語の中に著者の言葉として(「この物語のキモは○○である」といった形で)書かれているので、こちらは鼻白みます。そういった“教訓"は物語の中から読者が自然に読み取るものではないですか? 私は囲碁を打つときに、対戦は静かにやりたい。一々「自分の手の意味」を口に出して解説する相手とは、あまり楽しく打てないだろうと思うのです。それと同様、読書も“静か"にやりたいものです。
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