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2018年07月03日07:05

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【ただいま読書中】『能に憑かれた権力者 ──秀吉能楽愛好記』天野文雄 著、 講談社(講談社選書メチエ)、1997年、1553円(税別)
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 室町の南北朝時代から将軍や武将たちは能楽を嗜みとしていたそうです。「能」が猿楽から生まれたのが鎌倉時代後期ですから、けっこう早くから愛好されていたようです。特に有名なのは、足利義満将軍やばさら大名として知られる道誉(佐々木高氏)です。戦国大名も能を愛していましたが、それは能役者の「地方下向」が増えたことから窺えます。
 織田信長も能を好んではいましたが(幸若舞「敦盛」の「人間五十年下天のうちをくらぶれば……」が有名ですね)、耽溺はしていなかったようです。将軍義昭から鼓の演奏を求められて断ったり、長男信忠の能の演技が見事だという評判を聞いて不機嫌になったり、といった逸話が紹介されています。
 秀吉が能に熱中するようになったのは、文禄二年(1593)、肥前名護屋城に滞在中のことです。文禄の役で日本も朝鮮も大変だった時期ですが、秀吉自身はあまりに無聊なため能に熱中し始めたようです。もちろんそれまでも能に無縁ではありませんでしたが、観劇や能役者との交流程度だったのが、自ら熱心に能を演じるようになっています。それまで秀吉は茶の湯に熱中していたのですが、なぜか「熱」が能に引越をしたかのようです。天正十九年(1591)の利休の切腹が秀吉の心に何らかの作用をしているのかもしれません。本書にはその熱中ぶりが具体的に紹介されていますが、八箇月の“熱中"の後秀吉は大阪に戻ります。戻って二箇月後、秀吉は、自身だけではなく麾下の大名たちが出演する、三日間の禁中能を催しました。これは「大掛かりな素人能」「禁裡で賤視されていた専業猿楽が出演」という二点で「前代未聞の能」でした。現代よりも能の内容が“軽い"ものだったのだとしても、素人と玄人が入り乱れて禁中で能を演じるとは、一種の文化的衝撃だったことでしょう。
 初日の「芭蕉」について(秀吉がシテ)「(毛利)輝元の小鼓が素晴らしいと多くの人が驚いた」と評されているそうで、そのように評することができる観客が多くいた、というのもすごいことだと著者は感じています。この禁中能の直後、秀吉は二十四名の役者に大阪城詰めを命じています。常に身近に“稽古相手"を置いておきたかったのでしょう。また、自身の事績を主題に「豊公能」を制作させ、それを自分で演じています。数寄者です。
 当時新作の能として「明智討」もあります。これは題名を見たら内容はすぐわかりますね。
 私は能はテレビでしか見たことがありませんが、誕生したときには「劇」と「歌」が合体したとても新鮮なエンターテインメントだったのだそうです。だから流行したのでしょうね。現在たとえばミュージカルが流行るのと、どこか似ているのかもしれません。ということは、そのうちミュージカルも、現代人が能を見るのと同じような視線を未来人から向けられるのかもしれませんが。


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