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2018年06月14日10:53

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あるとないは同じではない

仏教の「空」を論じるという趣旨のトピックで、次のような文言があった。

≪ あるとないとは同じことだと、仏教は言います。論理的には同じだと。だから、はじめから空なのだと。≫

この人にはこの人の言いたいことがそこにはあるのだと思うが、おそらく「論理的」という言葉の意味を理解していない。あるとないを同じにしてしまったら、論理そのものが成り立たない。「空」に関してこのような神秘的な議論を展開することには激しい抵抗を感じてしまう。

実は有と無が同じであるということは、ヘーゲルが「大論理学」の中で論じている。少し長いが引用してみよう。

>>>>>>>>>引用開始>>>>>>>>>>>
有はそれ以上の一切の規定を持たないもの。有はその無規定的な直接性の中にあるものとして、ただ自分自身と同等であるにすぎず、他のものに対する不等ということでさえもなくて、自分の内でも、また外に対しても差異というものを持たない。もしも、そこに何らかの規定があるとすれば、あるいはその有を区別するような内容、言いかえると、有が他のものと区別されたものとして立てられるような内容があるとすれば、有の純粋性は失われるであろう。むしろ有は純粋の無規定性であり、空虚である。
--ここに直感ということが言われうるとすれば、有の中には直感さるべき何ものもない。むしろ、有はこの純粋な、空虚な直感そのものである。同様に、また有の中には思惟さるべき何かがあるのでもなく、むしろ、有はこの空虚な思惟にすぎない。だからこの有、無規定的な直接的なものは実は無であって、無以上のものでも、無以下でもない。
(無についても、有の論理とほぼ逆の叙述となり、結論として、無は有となる。)
--この意味で、無は純粋有と同一の規定であり、というよりも純粋有と同一の没規定性であって、したがって一般に純粋有と同一のものである。
--それゆえに、純粋有と純粋無は同じである。真理であるところのものは、有でもなければ、また無でもなくて、有が無に、また無が有に推移することではなくて、推移してしまっていることである。けれどもどうようにまた、真理は両者の区別のないことではなくて、むしろ両者が同一のものでないということ、両者は絶対に区別されるが、しかしまた分離しないものであり、不可分のものであって、おのおのはそのまま反対の中に消滅するものだということである。
それゆえに、両者の真理はこういう一方が他方の中でそのまま消滅するという運動、すなわち成である。言いかえると、この運動は、そこでは両者が区別されているが、しかしまたそのまま解消してしまっているというような区別を通して行われるところの運動である。
<<<<<<<<<引用終了<<<<<<<<<<<

ややこしいけれど何度も読み返していると、「あ、確かに」と納得する。しかし、よくよく考えてみると実はあまり意味のないことが論じられているのではなかろうかという気がしてきた。
ここでは「純粋有」と「純粋無」について論じているが、純粋の「有」とか「無」という概念について、普通の人は考えたりしない。そもそも、「有」そのものや「無」そのものというものがあるかどうかが問題である。
私たちが有無を言うときは必ず「何か」の有無について言う。
 「財布にはもうお金が無い。」
 「冷蔵庫に食料が有る。」
有無の概念が対象化されるとき、それはお金の有無であったり食料品の有無であったり、必ず「何かの」有無なのであって、純粋な有無を考える状況というのはありえない。もともとありえない概念について無理やり考えようとしたから、「有」も「無」も空疎になってしまった。中身がなにもない概念だから同じに見えただけの話ではないかと言う結論に至った。

とにかく「あるとないは同じ」などという大雑把な言い方には気をつけねばならないと思う。
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