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2018年04月14日06:26

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改革の基本目標は?

 政府が提唱している「働き方改革」の基本目標(理想モデル)は一体どんなものか具体的に提示されていましたっけ? 「美しい言葉の羅列」よりも「具体的な理想モデル」を示してくれた方が、頭の悪い私にはわかりやすいのですが。
 たとえば「滅私奉公」「24時間働けますか?」「フランスではバカンスがたっぷり」「アメリカでは仕事帰りにゴルフやナイター観戦に行ける」など、この世にはいろんな「働き方」があると思うのですが…… そういえば明治時代の日本のサラリーマンは、朝風呂をすませてから出勤、明るいうちに帰宅して夕方の散歩、なんて生活ができたそうなのですが、本当かしら?

【ただいま読書中】『スパルタクスの蜂起 ──古代ローマの奴隷戦争』土井忠興 著、 青木書店、1988年、2200円
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 映画「スパルタカス」で私にとって一番印象的だったのは、反乱の後、死を覚悟した人びとが「自分こそがスパルタカスだ」と名乗るシーンと、そのあとアッピア街道にずらりと並んだ磔の十字架の列でした。
 本書では、その「反乱」を扱う前に、まず剣闘士がどのような存在だったかを語り始めます。
 古代エトルリア人は、死者の霊を弔うために戦争捕虜を墓の前で闘わせるという習慣を持っていました。それがローマに伝わり、剣闘士の試合に人びとが「娯楽」として熱狂するようになります。
 支配者は、ローマ市民(つまりローマ軍の兵士たち)が剣闘士の流血沙汰を見慣れることで、戦争の時に回り中の人間が血まみれとなっても簡単には動じなくなることを期待していました。キケロは「多くの人々にとって、残酷で非人間的に見える見世物が、役に立ち、効用ありと信ぜられていた」と述べています。
 ローマで剣闘士となったのは、戦争捕虜または剣闘士養成所を出た剣闘士奴隷でした。養成所には「優れた剣闘士」を闘技場に供給する義務があり、奴隷には激しい訓練が課せられました。たくましい筋肉も必要ですが、そのために供給されたのは主に植物質の粗食でした(動物質でないのは、コストの関係でしょう)。優れた医師が健康管理を行いますし、熟練のマッサージ師もいました。ある意味、奴隷としては恵まれた環境と言えるかもしれませんが、「仕事」は仲間を殺すことです。奴隷たちの絶望は深く、厳しい見張りをかいくぐって自殺する者も多くいました。
 養成所の経営者は「ラニスタ」と呼ばれましたが、このことばは「屠畜業者(ラニウス)」と関係しています。彼らは社会的には軽蔑されていましたが(だからその“下"の剣闘士奴隷は当然家畜と同じ扱いです),政治家たちは自分の人気のため(選挙で高官に当選するため)に無料の「見世物」を出す必要からラニスタと強い関係を結んでいました。
 ローマで最初の剣闘士奴隷の試合がおこなわれた紀元前264年は、ローマとカルタゴの戦争が始まった年でもありました(ちなみにこれは第一次ローマ=カルタゴ戦争で、ハンニバルがイタリアに攻め込んでくるのは第二次の方)。その後の200年のローマは、戦争と領土拡張の連続で、戦闘の多くは略奪と破壊で締めくくられました。そして「略奪」の中には奴隷獲得も含まれていました。
 初期のローマから奴隷制度はありましたが、家父長的な社会ではまだ人間的な扱いを受けることができました。しかし大地主制度が進むと、奴隷は家畜と同等とされます。経営規模が大きくなればなるほど主人の目は現場には届かなくなり、扱いはどんどん悪くなっていきました。それに対して奴隷は、サボタージュ・逃亡などで反攻していましたが、紀元前139年シチリアで第一次シチリア奴隷蜂起が発生します。これは20万の奴隷が結集し、シチリアのほぼ全域を支配、派遣されたローマ軍をたびたび破り、最終的に鎮圧されたのはやっと前131年になってのことでした。このニュースが広がったとき、各地で奴隷の反乱が起きます。護民官グラックスは、反乱の鎮圧と同時に、再発予防のために大土地所有の制限を目的とした土地法案を起案しますが、その内容は穏和なものだったのに、大地主の反発を買いました。
 前73年、南イタリアにあるカプアの剣闘士養成所から70人の奴隷が逃亡しました。彼らのほとんどは、ガリア人とトラキア人で、奴隷にされる前にはそれぞれの故郷で自由に暮らしていた人たちでした。彼らに団結を呼びかけたスパルタクスは、現在のブルガリアのサンダンスキー近くで生まれたトラキア人だと言われています。奴隷たちはカプア近くのウェスウィウス山に籠もります。彼らは周辺の農場から食糧を略奪し、同時にそこで働かされている奴隷たちを解放しました。その結果奴隷軍団はぐんぐん膨張します。ローマ軍は「盗賊討伐」の軍を急遽差し向けますが、スパルタクス軍にあっさり敗れてしまいます。ローマ軍の装備を入手して、「盗賊」は「軍隊」へと変貌します。そして、次にやって来たローマ正規軍もゲリラ戦を駆使して打ち破り、奴隷軍は1万を越える大軍団になります。
 復讐のために、地主の家で乱暴狼藉(略奪・破壊・強姦など)を働く者もいましたが、スパルタクスは軍律を厳しくしてそういった行為の再発を防止しました。さらに、ローマ周囲での反ローマ闘争(小アジア、トラキア、ガリア、イスパニア、地中海の海賊、など)鎮圧のために有能な将軍が皆“外"に派遣されていたこともスパルタクスたちにとって有利な状況をもたらします。 
 奴隷軍は7万を超えるところまで成長。そこで内部方針に対立が生じます。ローマに進軍して支配階級をやっつける(復讐する)ことを望む人たちと、イタリア内部に「自由」はないから、生まれ故郷に帰ろう、と考える人たちです。スパルタクスが個人として望むのは、後者でした。
 ローマの元老院は、反乱鎮圧のために二人の執政官を同時に派遣することを決定しました。これは「国家の最も危険な敵に対応するための軍事的決定」で、元老院(や貴族たち)がスパルタクスの反乱をいかに重大視していたかがわかります。 
 スパルタクス軍の指揮官の一人クリコスは略奪(あるいはローマ進軍)のために本隊から分離しているところをローマ軍に襲われ、3万の軍はほぼ全滅となりました。ローマは歓喜します。しかしスパルタクスは、追撃するローマ軍を各個撃破しました。しかし、アルプス越えの準備が整う前に秋がやって来ます。ではどうすれば良いでしょう? スパルタクスは、南下して海賊と連絡を取る手を考えます。
 ローマは恐怖します。奴隷軍がローマに乗り込んでくるのではないか、と。そこで偽りの講和条約を提案することにします。単なる時間稼ぎで、(家畜並みの)奴隷との約束など守る気はありません。そして、スパルタクス軍はブルッティウム半島に閉じ込められてしまいます。最後の決戦(血戦)が始まります。スパルタクスの体はあまりに切り刻まれてしまっていたため、原型を確認することはできない状態だったそうです。
 スパルタクスの反乱が歴史的にローマにもたらしたものはいろいろありそうですが、著者はいくつかの可能性を上げるだけで断言はしません。歴史はシンプルに進むものではありませんし。ただ、ローマが共和制から帝制に移行するきっかけの一つになったことは間違いなさそうです。奴隷たちはそんなことを望んで武器を取ったわけではなかったでしょうが。


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