mixiユーザー(id:64140848)

2018年04月09日17:35

148 view

森を見て木を見ず

一般に細部にこだわって大局を見落とすことを戒めて、「木を見て森を見ず」というのであるが、大局ばかり見ていて却ってことの本質を見落とすこともある。

進化論の話になると、「種は生き残るために変化してきた」というような言われ方をするのだが、実は変化する主体となるようなものはどこにもないということが見落とされがちである。進化の歴史のどこをとっても、ある種が別の種に変化したなどという事実はないのである。各個体に着目してみれば、どの猿も猿として生まれ猿として死んでいく、どの人間も人間として生まれ人間として死んでいくそれだけのことでしかない。決して猿が人間に変化するなどという事態は起こらなかった。

上図を見ると、猿に似た動物がだんだん人間に変化していったような印象を受ける。しかし当たり前のことだが、描かれた各個体は全然別のものであり、決して左から右方向へ変化していったわけではない。

一般に生物は複製能力を持つ、ただし複製と言っても全く自分と同じものを生むのではない。自分に似てはいるが少し違う性質を持つ子を産むのである。この時、親と子の「違い」はあらかじめたくまれたものではない。「違い」の方向性というものは定まってはいず、いろんなバリエーションがありうると考えられる。ただ生存と繁殖に適さない個体は子孫は残さない。結果的に残るのは(運も含めて)生存に適した性質をもったものになる。最終的に生存している個体の親から親へとプロットしていけば、種が変化していったように見えるわけである。それは単にそう「見える」だけのことで、各個体にしてみればそのようなものとして生まれ、そして死んでいくだけのことに過ぎない。

言いたいのは、生存に適するものは生存するし、繁殖に適するものは繁殖する。しかし、「生存や繁殖に適するように変化する」というような事実はどこにもないということである。

時に人は、「生存に適するように変化する」主体としての種というものが存在すると勘違いすることがままありがちである。そのような勘違いが優生思想を生み出す。そういう人は森を見ながら、それが一本一本の木からなっていることを見失っているのである。大事なのは人種とか国家という森ではなくて、一本々々の木としての人間である。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する