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2018年04月03日06:49

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革命

 日本ではなぜか「革命」が起きません。それに一番近かったのは、「一揆」や「ええじゃないか」ですが、それとて体制の転覆を目指していたわけではありません。ちょっと不思議ですが、よほど統治者がガス抜きが上手いのか、民衆にまとまりがないのか、あるいはそれ以外の要因かな?
 ……待てよ、革命が起きた国は、たとえばユダヤ人や黒人を差別していたり、あるいは白人に統治されてそれに反発をしていたり、つまり“異民族"を対象に集団で暴力的に振る舞うことに慣れていた、という視点はどうでしょう。もしもそうなら、これからの日本でヘイトスピーチなどがどんどん流行するようになれば、革命の気運も高まる可能性がある、ということになります。

【ただいま読書中】『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』藤谷俊雄 著、 岩波新書青680、1968年
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 伊勢神宮はもともと天皇家の氏神で、奈良時代頃に「国家神」としての性格づけが強くなりました。しかし古代天皇制国家の崩壊とともに伊勢神宮の経済基盤は衰退、それを支えたのは主に東国の武士階級による寄進でした。
 日本の原始的な宗教を体系づけたのは、仏教です。本地垂迹説によって神仏習合が行われましたが、その中心となったのは、天台宗や真言宗でした。鎌倉新仏教は旧仏教とともに神道にも否定的で「神祇不拝」の態度でした。また、平安末期から神道に儒教の影響が加わり、それが「神への信仰」と「封建道徳」との両立を可能にしたため、「伊勢神道(度会(わたらい)神道)」が最初は上級武士に、ついで「御師(おし)」が全国に布教活動をすることによって下級武士にも広まります。
 室町時代になると、伊勢信仰は名主層から農民や商人にも広まります。室町幕府は朝廷に代わって神社の祭祀も支配しました。室町末期に、伊勢信仰が明らかではないのは、能登・加賀など真宗が盛んなところと、陸奥・出羽など僻遠の数箇国だけだったそうです。しかし、絶頂を極めたらあとは衰退が待っています。室町幕府が衰退してその後ろ盾を失った伊勢神宮は、式年遷宮が100年あまり中断、信仰も変質して、「政治」や「道徳」の信仰が「現世利益を祈願するもの」になりました。この「現世利益」を来日したキリスト教宣教師は厳しく非難しています。ところで、鎌倉新仏教の「多神教的態度の禁止」「呪術ではなくて救済や解脱を求める」態度が、そのキリスト教の受容も可能にしていたのですから、信仰というのは面白いものです。
 ここまででまだ17ページ目なんですけどね、私はもうお腹いっぱいになりそうです。神道に対して仏教や儒教の影響があった(逆に神道の影響を両者も日本で受けた)ことは以前読んだ本で知っていましたが、「誰が信じるか」によって「信仰そのものが変質する」なんて、話が逆じゃないか、とも感じます。ただ、こういった歴史を知ると、現在の神道のいろんな面が理解できるような気もします。
 伊勢への集団参宮は元寇直後から記録があります。14世紀末から畿内を中心に集団参宮が広く行われるようになりましたが、同じく中世末期には、三十三所巡礼など仏教の巡礼運動が庶民を中心に行われるようになっていました。神道と仏教、どちらが先だったかは確定できません。ただ、中世の「お伊勢参り」は、死も覚悟しての「苦行」としての巡礼でした。それが江戸時代になると「ブーム」「観光」といった雰囲気のものになります。『東海道中膝栗毛』の雰囲気です。
 江戸時代に「全国規模でのおかげまいり」は、1705(宝永二)年・1771(明和八)年・1830(文政十三、天保元)年の三回ありました。大体60年周期です。享保年間には1718年と1723年の2回ありましたが、これは小規模なものでした。また、1867(慶応三)年にまた全国規模のものが発生しましたがこちらは「ええじゃないかおどり」に著者は分類しています。
 宝永の「抜け参り」では、東は江戸から西は安芸まで、3箇月で総計300万人がお参りをしました。「ぬけまいり」は主人の許可を得ていませんから、旅行の準備などほとんどしていません。そこで巡礼に対して衣食住や移動手段を提供する「施行」が道中の町々で行われました。これは宗教的な「報恩」という意味もあったでしょうが、現実的な「暴動予防」政策の意味もあったことでしょう。明和では、東は関東全域・新潟、西は九州北部まで地域が広がっています。
 怪異現象として「降札(伊勢神宮のお札が空から降ってくる)」がありました。ただし史料ではそれはすべて「伝聞形」のため、江戸時代から知識人はその信憑性を疑っています。
 文政年間のおかげまいりでは400〜500万人が参加したそうです。とんでもない動員数です。経済効果はすごかったでしょうが、ただその効果がプラスに働いたかマイナスだったかはわかりません。商売繁盛で喜ぶ人もいたでしょうが、街道沿いでは物資不足や物価上昇がひどかったようですし、生産者がそれだけ現場から抜けているのですから日本全体の生産量にも影響があったはず。
 1963(慶応三)年の「ええじゃないかおどり」は「おふだふり」で始まりました。降ったのは、伊勢外宮のお札・小銭・他の神社のお札・小判・小石・娘・生首など好き放題です。ただ、「おかげまいり」の場合は、各地で運動が高まってからお札が降るのに対し、慶応の場合は「お札が先行」という点が違っていました。そのためか、「おかげまいり」は発生しませんでした。そのかわりのように「おどり」(と打ち壊し)が各地で発生しました(ちなみに、「ええじゃないか」の前後の年には数十回起きている百姓一揆が、「ええじゃないか」の年には数回に低落しています)。
 どうも「ええじゃないか」は、「おかげまいり」の伝統を利用して、誰かが人為的に民衆のエネルギーを放出させようとしたもののようです。だけど、誰が何の目的で? そしてその目的はちゃんと達成できたのでしょうか?
 ちなみに、この前読んだ『死都日本』に「おかげまいりの直後に大震災が起きる」とあって、その参考図書として本書があげられていたので、読んでみました。私個人には伊勢信仰の歴史的変遷の方が面白かったのですが。


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