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2018年03月27日21:38

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「善の研究」の問題点

西田哲学のファンの多くは彼のワンネスに共感を覚えているのだろうけれど、論理によってそれを導き出そうとしている点についてはかなり無茶なことを言っているような気がする。「善の研究」第2編第2章の中の次の一節を読んでいると、手塚治虫の「火の鳥」におけるコスモゾーンについて述べているのではないかというような気がしてくる。

≪ かくのごとき難問の一は、若し意識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己の観念であるという独知論に陥るではないか。またはさなくとも、各自の意識が互いに独立の実在であるならば、いかにしてその間の関係を説明することができるかと言うことである。しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬと言うのは、単に意識には必ず統一がなければならぬと言うの意にすぎない。若しこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならば、そは明らかに独断である。然るにこの統一作用すなわち統覚というのは、類似せる観念感情が中枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なる者が、純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故を以って一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。  ≫(「善の研究」岩波文庫第97刷P.74-75)

「意識現象が唯一の実在」という場合には、他者の意識現象などは含まれているはずがないのだから、「自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができる」はずがない。
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