mixiユーザー(id:64140848)

2018年03月27日11:15

288 view

個人あつて経験あるにあらず 経験あつて個人あるのである

倉田百三はこの言葉に出会って独我論を脱することが出来たと述懐している。が、どうだろう。「経験あつて個人ある」というのは、実在するのは経験であって、個人というのはその上に立つ仮象であるという意味だろう。
西田は、「善の研究」において最初に書き上げたとしている第2編では、「意識現象が唯一の実在である」と述べている。物質現象の対象概念として意識現象と呼んでいるものの、実在するのがそれだけであればあえて「意識現象」とも言えなくなる、それで経験と称しているのだろう。

そのような観点に立つならば、「個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、‥」という言い方はちょっとおかしいような気がする。「意識現象が唯一の実在」と述べている時点で既に実存的な視点に立っており、経験はあえて言うならば無人称の<私>の経験しかないのであり、ある意味究極の独我論的な視点に立っているとも言える。このことを根拠に独我論を脱することが出来るというのは当を得ないのではないかという気がする。


3 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する