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2017年12月27日10:55

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アップ希望

 物価上昇は2年で2%、賃金アップの希望は3%。では自民党議員の来年度の政治献金は何%のアップ希望なんでしょう?

【ただいま読書中】『新訳 アレクサンドロス大王伝 ──『プルタルコス英雄伝』より』プルタルコス 著、 森谷公俊 訳、 河出書房新社、2017年、3200円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/430922704X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=430922704X&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=a4c297b68da8025e7031617309a5ddcd
 まず本の厚みに私は驚きます。500ページ以上って、プルタルコスの「アレクサンドロス大王伝」はそこまでのページ数ではなかったはず(読んだのはずいぶん前なので記憶が薄れて、(記憶の中の)本の厚みも薄くなってしまったのかもしれませんが)。
 アレクサンドロスは、芳香に包まれた少年でしたが、この「芳香」は「神性」の象徴とされているそうです(そういえば、仏教では線香、キリストでは香油が重要な役割を果たしていますが、「香り」には神聖(神性)な意味があるんでしょうね)。父王フィリッポスは外征続きで、アレクサンドロスは不在の父に対する王としての対抗心(と、自分の母を疎んじることへの反発)を持ちながら育ちました。
 父が暗殺され、アレクサンドロスは20歳で即位。テーベで起きたギリシア解放運動を武力で弾圧します。ペルシア遠征を決定した直後に、有名な「哲人ディオゲネスとの出会い」のエピソード(「望みは?」「ちょっとどいて日が当たるようにしてくれ」……「もしも私がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたい」)。グラニコスの会戦では無謀な渡河作戦を展開し、大勝利を得ます。ただ死者数が、ペルシア側は歩兵2万人・騎兵2500人なのに対してマケドニア側は34人、というのはいくら何でも話を膨らませすぎでしょう。小アジア進攻のスピードがあまりに速いため、パンフュリアでは「海が退いてアレクサンドロスに道を譲った」という「奇跡」が発生したと言われていますが、アレクサンドロス自身は手紙ではその奇跡については全然触れていません。ごく普通に進軍をしたようです。そして、これまた有名な「ゴルディオンの結び目」。これまた伝説では「剣でばっさり」となっていますが、アリストブロスによれば「頸木(くびき)の紐が結びつけてあったヘストルと呼ばれる止め釘を轅(ながえ)から引き抜いたら、結び目は簡単に頸木から外れた(紐の両端が結び目の中に潜り込ませてあったのが止め釘を抜くことで見えるようになったので普通に結び目を解くことができた)」のだそうです。そして、イッソスの会戦。ペルシア王ダレイオスは大軍を率いているのになぜか自分に不利な地峡での対決を選択してしまいます。3つの史料で差がありますが、ペルシア軍の損害は大体死者11万くらい。対してマケドニア軍の戦死者は騎兵150人と3つの史料が一致しています(歩兵は120〜300と史料で差がありますが、どれにしてもこれまた大勝利ですね)。
 飲酒癖は相当だったようですが、プルタルコスは「一杯ごとに長い談話をしたからだ」と弁護しています。酒の席では愉快な存在だったようですが、欠点は自慢話が過ぎること。なかなか人間的です。
 そこからも戦いの連続ですが、それを彩るのが、神託と夢と前兆です。まるで現実離れした世界の話のようにも見えますが、“それ"が当時の世界観だったのでしょう。
 「アレクサンドロス」や「クレオパトラ」や「フィリッポス」が何人も登場します。たぶんポピュラーな人名だったからでしょうが、当時の人たちは混乱しなかったのか、とよけいな心配をしてしまいます。
 ガウガメラの会戦でダレイオス軍を散々に打ち破り、アレクサンドロスはペルシアの西半分を支配することになります。そしてアレクサンドロスはついにバビロニアに到達しますが、そこで「ナフサ(石油)」を知ります。ペルシアをついに完全征服。アレクサンドロスはそこに安住せず、さらに東を目指します。黒海、カスピ海、と進み、進むにつれてアレクサンドロスは服装などを東方のものに変えていきます。その方が統治がしやすい、と考えたからです。同時に現地民にマケドニアの文化を伝えます。しかしマケドニアの伝統を守りたい人に、アレクサンドロスの態度は受け入れ難いものでした。古くからの忠臣は去りあるいは粛清されていき、アレクサンドロスはだんだん気難しい王になっていきます。
 そしてついにインド侵攻。戦利品で重たくなりすぎた荷車の列を見て、アレクサンドロスは自分の車を焼き払います。インドでは、インド人の軍隊だけではなくて、厳しい自然環境と象軍もまた“強敵"としてマケドニア軍の前に立ちふさがりました。2万の歩兵と2000の騎兵を擁したポーロス王との戦いをかろうじて制することはできましたが、幅6kmのガンゲス川の向こうには8万の騎兵20万の歩兵8000両の戦車6000頭の戦象が待ちかまえています。マケドニア兵の気力は尽きました。帰郷をせがむ彼らの願いを入れ、アレクサンドロスは「海を見てから帰ろう」と川に沿って南下します。しかしその途中の戦いで重傷を負ってしまいます。それでもアラビア海を渡り、アレクサンドロスは故郷を目指しますが、途中で死んでしまいます。そして、激しい後継者争いが始まりました。
 「世界地図」が頭になかったはずの人が、あれだけの距離を戦いながら移動したわけは、一体何でしょう。というか、彼の遠征によって「世界地図」という概念が西洋に導入されたのかもしれません。


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