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2017年12月22日11:24

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超越論的って単なる思い込みか?

哲学的な話になると、「超越論的」という言葉がよく出てくる。しかし、実を言うと私はいまだにこの言葉の意味をつかみかねている。純粋理性批判の序論でカントは次のように述べている。

【 私は、対象そのものを認識するのではなく、ア・プリオリに可能なかぎりで、私たちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。 】

なんかややこしい言い回しだが、自分の認識に対する自己言及的な判断に関係することだという見当はつく。問題は「ア・プリオリに可能なかぎりで」という言葉に引っかかる。哲学をちゃんと勉強した人は笑うかもしれないが、ドイツ語も分からず我流で考えている私はこういうところにつっかかるのである。

「ア・プリオリに可能なかぎりで」というのはア・プリオリに可能でない場合は、判断停止するのかそれとも少しぐらいならア・プリオリでなくともよいという意味なのか、その辺がよく分からないのである。実際の使用例を見ると、それほど「ア・プリオリ」にこだわっているようにも見られない。アマチュア哲学者だけならまだしも、本職の哲学者にもそういう傾向があるのではないかと思えるのは、私の浅はかさなのだろうか。

カントは因果律をア・プリオリだと言うが、ヒュームはそうでないという。これは現代の哲学者の間でも決着がついていない。もし、カントの判断がア・プリオリだというなら、本来はだれもがそれを認めねばならないような気がするのだが‥‥。

論理哲学論考においてウィトゲンシュタインは、単純な対象や要素命題の具体例を一つも挙げることなく、それらが存在する前提で論理空間を構成している。それは、言葉が意味をもつためには、単純な対象や要素命題が存在しなければならない、という「超越論的」判断からだというのである。
しかし、ウィトゲンシュタインはやがて「論考」時代の意味論的言語観を捨てる。すると、「単純な対象が存在しなければならない」という超越論的要請はア・プリオリなどではなく、単なる独断であったということにはならないだろうか。

認識に関する判断で、そうでなければならないという気がするときに、「超越論的にそうでなければならない」と言っているような気がするのだが、どうだろうか。
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