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2017年12月19日22:58

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「ファースト」の中身

 アメリカのトランプ大統領が口にする「アメリカ・ファースト」は、本当は「アメリカの白人ファースト」と言いたいのをPCによって我慢して“単語変換"しているだけなんじゃないか、と感じることが多くあります。おっと、もっと厳密には「アメリカの白人男性ファースト」かもしれませんが。

【ただいま読書中】『死を急ぐ幼き魂 ──黒人差別教育の証言』ジョナサン・コゾル 著、 斎藤数衛 訳、 早川書房、1968年、420円
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 公民権運動が盛り上がっていた時代、ボストンの公立学校には、自分が受け持つニグロの子供を「動物」「ニガー」と呼ぶ教師が多くいました。さらにその教師に敬意を表さない児童は、学校の地下室で鞭打ちの罰を受けることになります。著者(ユダヤ系の白人)は、臨時講師として赴任した小学校で、その実例を山ほど見ることになりました。教師たちは口では「平等」「デモクラシー」「人種差別反対」と唱えますが、その行動は差別主義者そのものです(しかも本人たちは「自分は差別主義者ではない」と信じ込んでいます)。著者自身が自身に内在する差別意識を自覚しているから(ユダヤ人は差別される対象だから差別意識に自覚的になり易いのかもしれません)そういった「偽善」に敏感です。ついでに言うと、著者は精神障害者に対する差別意識を持っていることが本書からは読み取れます。
 著者は「新入りの臨時講師」という弱い立場のため、最初は周囲に合わせていました。差別に加担はしないが黙認する態度です。おかげで「露骨な差別」と「平等という偽善の仮面をかぶった差別」行為に関する“参与観察"の機会は豊富です。さらに、貧しい家庭のニグロの子供にきちんとした公教育を与えず、その結果無学な青年に育ってしまったニグロを指さして「ほら、ニガーを教育なんかしても仕方ない」と非難する社会システムの残酷さについても著者はたっぷり学びます。ボストンの「グローブ」紙の記事では、黒人差別学校の設備・人員配置のあまりのひどさについて、根拠のある記事が連載されます。それに対する教育界の反応は「『ニグロ・スクール』ではなくて『地元民学校』だ」「教育委員会の責任でも手落ちでもない」「人種差別はあり得ない」でした。「あり得ない」と言えば解決するのなら人種差別は「簡単な問題」なのですが、こうやって「言葉を飾ることで問題を隠蔽しようとする偽善者(それも権力側)」が多ければ多いほど、問題の根は深くなっていき、(たとえば社会が不安定になることで)結局差別する側にも不利益が生じるだろう、と著者は感じているようです。著者は小学校の予算の白人と黒人の明白な差の数字を挙げ「(アメリカはデモクラシーを全世界に“輸出"しようとしているのだが)こうした数字を眺めていると、われわれはとうの昔にデモクラシーを輸出しつくして、最早自国用は残り少ないのではないかと疑いたくなる。ニグロの子供たちに分ち与えるデモクラシーが少なすぎることだけは確かである」と断言します。
 教育に限らず、行政は(無能ではないにしても)無策です。著者はこのことについても極めて具体的に記述しますが、別に熱心に掘り出しているわけではなくて、黒人差別学校で“普通"に過ごしていたら自然に眼に入ってくる事例があまりに多かった、というだけのことです。逆に言えば、差別の問題は見る気がなければ簡単に意識せずに黙殺できるということです。だから、著者が教師たちに内在する差別意識を刺激する言葉をつい使ってしまったとき、教師たちは狼狽えたり自己弁護するだけではなくて、著者を攻撃してきます。自分が非難されたと感じたからでしょう(しかもその非難が正しいことを知っているわけです)が、著者は別に非難をしているわけではなくて気がついたことをうっかり指摘してしまっただけなのです。非難されたと思うのは、思う側に“問題"があるだけなのです。
 1965年2〜3月、公民権運動がボストンで特に注目されます。アメリカ南部で黒人殺害がおこなわれ(特にセンセーショナルに扱われたのは黒人牧師リープ殺害事件でした)、ボストンでは200名の青年が抗議の座り込みをおこないます。その中に著者もいて、警察に逮捕されました。著者の評判は落ちます。そして学校にとても優秀な黒人教師がやって来ます。学校に充満している「教えることができない」教師とは一線も二線も画しているピカイチの臨時講師(黒人だから常勤になれないのでしょう)。二人は友人になり、学校を少しでもよくしようと活動を始めますが、1箇月で彼は学校から姿を消します。そういった活動が目障りな人が何かをしたのでしょう。マスコミが黒人差別学校の実態に興味を持ち取材を申し込みます。教育委員会は慌てて老朽校舎の工事(それまで著者がいくら言っても放置されていた割れた窓ガラスの修理など)をおこないます。そして教育委員会は「黒人教育」のために10万ドルの予算で新しい地区監督官を6人雇うことにします。著者は呆然とします。その金を「学校」に使えば「教育」が実際によくなるのに、と。おっと、教育委員会は自分たちの俸給アップも同時に決定しました(その分教育予算は削減されます)。
 「学習能力がない」と学校に認定された子供たちに、著者はラングストン・ヒューズの詩を読んで聞かせます。子供たちは目を輝かせます。本のカバーの詩人の写真が黒人であることにまず驚き、つぎにその詩の内容に強い感銘を受けます。読み書き能力がひどく低い(入学後にさらに低下していた)子供たちが喜んでその詩を暗唱します。自分たちの世界に“外側"があること、自分たちにも未来があること、黒人でもその能力を示すことができることを彼らは学んだのです。しかし著者のこの行為は校長の逆鱗に触れました。黒人の詩という「つまらないもの」を教室に持ち込むことを校長は禁止していたのです。著者はあっさり馘首。学校だけではなくてボストンの教育界から著者は追放されてしまいます。しかし、ここがアメリカのすごいところでしょう、ここからもう一つのストーリーが展開していくのです。
 差別行為は醜い、と私は感じるから、嫌いです(「美しい差別行為」って、あります?)。自分自身の中に差別感情が潜んでいることも好きではありません。だけどそういった差別感情が潜んでいても、それが行為に結びつかなければとりあえずは「自分はきちんと生きている」と言えると私は感じています。本書にたくさん登場する「自分には差別感情なんかない」と断言しつつ差別行為を平気で繰り返す醜悪な人々には、理解できない態度かもしれませんが。
 

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