mixiユーザー(id:64140848)

2017年12月17日09:34

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分類は所詮恣意的にならざるを得ない

「みにくいアヒルの子の定理」では、類似というのは我々の感性が判定するものだから、感性的要素というものを除外すれば、「類似」という言葉の意味そのものがすっぽり抜けてしまうということを述べた。

類似判定というものが感性によるものであるならば、分類という操作も完全に客観的ではありえないということになる。生物学における種の定義が確定できないというのもそういうところからくるのだろう。

かつての南アフリカ連邦にはアパルトヘイトという制度があった。白人と非白人を公的に差別する制度である。しかしこの制度下において、れっきとした黄色人種である日本人が「白人」として分類されていたという事実がある。南アフリカの重要な貿易相手国である日本を差別するのはまずいということで、日本人には特別に「名誉白人」という、あまり名誉ではない称号が与えられたのだ。

一昔前の日本では、「金髪碧眼」というのが欧米人に張られたレッテルであった。今の若い人から見ると奇妙なことに思えるかもしれないが、私の親の世代の人は、茶色系の頭髪はすべて「金髪」と称していた。よくみれば、赤毛、栗毛、茶髪はそれぞれ違うにもかかわらず、すべて「金髪」と呼んでいた。

分類はときに極めて恣意的であることがある。
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