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2017年12月16日22:51

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貸し靴

 スキー場やボーリング場には貸し靴のサービスがありますが、たとえば北海道などの雪国の空港には貸しスノーシューズのようなサービスはないのでしょうか? 南からの旅行者は喜ぶと思うのですが。

【ただいま読書中】『桂太郎』宇野俊一 著、 吉川弘文館、2006年、2000円(税別)
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 長州藩で下関事件が起きたとき、弱冠17歳の桂太郎は第2番小隊の司令として下関にいました。第一次長州征伐後、高杉晋作と奇兵隊は伊藤博文の力士隊とともに保守派を次々武力で打ち破っていきます。桂太郎は藩主の側で、保守派と改革派の間を仲介するという難しい立場の鎮静会の一員として活動しました。戊辰戦争では東北地方で劣勢の総督軍の指揮官として苦戦と転戦を強いられます。桂は就学の志を持って上京、すでに満員となっている横浜の語学所に特例で入学を許されます。目標は海外留学で、官費留学が困難となると私費でプロイセンに。帰国後は山県有朋の信頼を勝ち得ます。
 大山陸相の下で主流派の陸軍次官として桂は「天皇が軍を統帥する」を「理念化」します。それによって陸軍には「薩長による支配」が確立しました。また予算削減を次々骨抜き。山県内閣で桂の活躍は素晴らしく、国会議員に対する裏工作も活発で、最終的に陸軍はほとんど予算を削減されずにすみましたが、桂にとっては政府・政党に新しい人間関係ができたというメリットがありました。
 山県首相が辞職して松方正義内閣が成立すると、桂は陸軍次官を辞して第三師団長に転出します。これまで桂は「文民のポスト」を歴任していて「軍人」としては不満(か劣等感)があったのかもしれません。日清戦争で第三師団は海城で苦しい冬季戦を強いられますが、軍務及び軍政で功績を挙げ「文武両道」となります。台湾総督を一時務めて次は陸相、というところで横やりが入りますが、この辺は薩摩や長州の藩閥の暗闘があったようです。もっとも桂自身は明治の初めから薩摩との付き合いも深いのですが。桂は、松方や伊藤の組閣の時の相談役(と相手への交渉役)のような役割も果たすようになります。そして、第二次伊藤内閣で桂は初の陸相となります。しかしこの時期の「政党政治」の迷走ぶりは、簡単に説明できるようなものではありません。
 明治34年ついに内閣組閣が行き詰まってしまい、元老山県は「桂太郎を首相に」と巧妙な根回しを始めます。これは、「元老」から「第二流(元老の次の世代)」への世代交代でした。これはつまり「元老の影響力」が強い内閣であることを意味します。これは運営にとっても苦労をしそうです、というか、桂はとっても苦労をしています。国内問題だけではなくて、日英同盟や外債募集など、国際関係にも配慮が必要です。そして、日露戦争、講和条約、総辞職。かくして第一次桂内閣は終わります。しかし下野しても桂の政権復帰の意欲は高く、明治41年に内閣組織の大命が桂に下ります。しかし、有力な与党がない総理大臣にとって、緊縮財政と物価高騰に対応した国家公務員の俸給アップは難しい課題である上に、政友会が地租軽減を訴えるためその対応にも追われます。伊藤暗殺、韓国併合、満州問題……大問題も続きます。さらに大逆事件。桂にとって、事件の内容よりも、こういった事件が起きてしまったこと自体が大問題でした。さらに「南朝正統論」が声高に叫ばれるようになって、結局桂は辞職を決意します。21世紀から見たら不思議な「政局」です。
 明治天皇崩御により、桂は大正天皇の内大臣兼侍従長に就任させられます。そして、西園寺内閣が「二個師団増設問題」などでスタックすると、三度目のお座敷がかかります。ここで桂は「元老支配からの独立」を目指します。これはつまり「日本という国が『明治維新』から脱却すること」を意味していたのでしょう。しかし、新党結成を目指すも不調、体調も不調、とうとう50日で桂は政権を投げ出してしまいます。結局日本は「明治時代」から脱却することができず、そのまま世界大戦へと突入していくことになってしまったのでしょう。


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