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2017年12月16日20:33

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醜いアヒルの子の定理

割と有名な哲学者が「醜いアヒルの子の定理 」というのを引用していた。純粋に客観的な立場からはどんなものを比較しても同程度に似ているとしか言えない、という定理らしい。つまり、普通のアヒルの子同士とアヒルの子と白鳥の子は同じように似ているというのである。

半世紀前に渡辺慧という物理学者が提唱したもので、かなりポピュラーな理論らしく、”ugly duckling theorem”で検索すると英語版の記事もたくさんヒットする。

最初は「オッこれは面白い」と思いながら読んでいたのだが、そのうちなんか変だなと感じるようになってきた。どうも「純粋に客観的な立場から比較」というのがおかしい。つまり、「白い」とか「大きい」とか「固い」というような「述語的属性」は主観的だとして類似的属性から排除し、代わりに「個体AとBに共通する属性」、「B,C,Dに共通する属性」というふうに、非術語的な属性をでっちあげるのである。そうすると、客観的な類似属性というものは、個体の組み合わせの数だけある。
  ( 参照==> http://ibisforest.org/index.php?醜いアヒルの子の定理 )

’n羽のアヒルの集団について考えると、類似的属性はnから任意の数のアヒルを選び出す組み合わせの数(2のn乗-1)だけある。そして、どの任意の2羽を選んでも、その2羽が属する組み合わせはすべて同じ(2の(n-2)乗)である。

しかし、この定理になんの意味がある? 「個体AとBに共通する属性」は本当に客観的な類似属性と言えるのか?  「個体AとBに共通する属性」と 「個体BとCに共通する属性」を等価に扱う根拠はどこにあるのか? それは客観的というより、等価に扱うことこそが恣意的と言うべきではないのか?

醜いアヒルの子の定理に論理的な瑕疵はないと言えば言えるかもしれない。しかし、それは当たり前のことを言っているだけで、何の意味もない定理である。「似ている」という意味から感覚的なことをすべて取り除けば、すべてのものは同じように「似ている」と述べているだけのことに過ぎない。

あえて(半分本気で)意義を見出そうとすれば、「仏教的無分別の立場からはすべて無差別」と言えるかもしれないが‥‥。
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