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2017年12月11日18:36

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火の車

 中国語で「火車」は(仏教用語ではなくて日常用語では)日本語の「汽車」に当たる、と聞いたことがあります。たしかに蒸気機関車は「火の車」だ、と感じましたっけ。
 では「火輪」は? 明治時代の日本ではこちらは「蒸気船」だったそうです。外輪船のことだったのかな?

【ただいま読書中】『火輪の海 ──松方幸次郎とその時代』神戸新聞社 編、神戸新聞総合出版センター、2007年、2500円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4343006778/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4343006778&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=e0c74d72928f8f64931543c1a1647b84
 明示の元勲、松方正義は子だくさん(十五男七女)でしたが、その三男が幸次郎です。本書はまず松方正義の人生について、ついで明治二年に難破船で漂流している川崎正蔵が紹介されます。
 明治十七年、18歳の幸次郎は私費留学生として渡米します。東大予備紋に入学したものの厳しい規則に反発して暴れたため退学になってしまい、新天地を求めたのです。当時有為の若者たちは次々海を渡っていました。しかし勉学の途中で、結核などに倒れる者も数多かったのです。アメリカになれた幸次郎は法学を学びたくなり、エール大学に編入します。「留学」ではなくて「勉学」に幸次郎の目標はシフトしていたのです。そこで「スポンサー」になってくれたのが造船所で成功した川崎正蔵でした。大学院に進んで1890年(明治二十三年)民法の学位を取得、こんどはヨーロッパで3箇月ほど過ごしてからついに帰国。首相になった父の秘書官を務めます。父が下野すると、なぜか日本火災保険の副社長に。さらに灘商業銀行(のちの太陽神戸銀行)や高野鉄道(のちの南海電鉄)創立で発起人の一人になっています。そして神戸の川崎造船所の社長に就任します。
 なんとも波瀾万丈の半生ですが、これはただの「プロローグ」に過ぎません。ここから徹底的に合理的な会社経営、さらには美術品収集の「本編」が始まるのです。特にヨーロッパで収集した「松方コレクション」が戦後フランスから返還され、それで国立西洋美術館が開館された、というのは驚きのストーリーです。こういった人が国の「経営」をやっていたら、日本は戦争に負けなかった、というか、そもそも戦争が不必要だったかもしれません。


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