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2017年12月10日13:21

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お花畑

 核廃絶を願う運動を河野太郎外相は「お花畑理論」と批判していました(2017年12月10日付朝日新聞)。だけど「核抑止論(核があれば世界平和が守れる)」もまた「お花畑理論」ではないです? 「毒の華」のお花畑ですが。
 これは「理論」の問題ではなくて「核を使いたい(使われたくない)」という欲望や願望の問題なんでしょうけれどね。

【ただいま読書中】『パリ地下都市の歴史』ギュンター・リアー、オリヴィエ・ファイ 著、 古川まり 訳、 東洋書林、2009年、3800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4887217730/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4887217730&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=5657ab6a2436b477920b4b1c401d9ee1
 「パリの地下」と言って私がすぐ想起するのは「オペラ座の地下の迷宮(「オペラ座の怪人」)」「下水道」「カタコンベ」くらいです。しかし「パリの地下」として特徴的なのは「採石場」なんだそうです。南部は石灰岩、北部は石膏の坑道網が細かく存在し、そこから切り出された石材でパリの街が建造されたそうです。ということで「探検」のはじまりはじまり〜。もっとも「パリの地下探検」は、1955年の条例で禁止されているれっきとした違法行為なんですけど。
 パリの地下道は全長300km、それがいくつかの「網」となってパリの地下に存在します。太陽王ルイ14世は建築愛好家でしたが、彼の後継者も建築が大好きで、そのためには手近の採石場が活用されました。その結果、道路が陥没したり建物が傾いたりの被害が続出し、1776年にやっと採石場監督局が作られ「地下の危険」に対処することになりました。まずは「正確な地図」作りから。道路や公共建築物の地下の空洞には、補強のための柱や壁が建築されます。しかし調査のためには調査孔を掘らざるを得ず、地下の迷路はさらに複雑になっていきます。ただ、職人たちは仕事の手を抜かず、きちんと古典主義的な工事をおこないました。また、地下の回廊には地上の道路と同じ標識が律儀に付けられましたが、それによって、のちに地表で道路や街の名前が変えられても、昔の名前が地下に保存されることになりました。
 密輸業者にも“地下ルート"は人気だったため、当局は「地下の壁」を建築することでそれを遮ろうとしました。それに対しては「民間のトンネル」が新に掘られることで事態はさらに複雑になっていきます。
 モンマルトルなどパリ北部から掘り出された「パリ石膏」は住居の防火建材として大きな需要がありました。ルイ14世は建物の木材部分と柱に石膏を塗るように命令をしています。当然地下に巨大な空洞が生まれましたが、当局は爆破する(それで地表の丘を下に落とし込む)ことで「解決」としました(それが根本的解決になっていないことは、現在でも舗道が陥没したり家の壁にひびが入ることでわかります)。
 最初の下水道は、汚水をセーヌ川に流す通路でしかありませんでした。固形化した汚物(要するに大便)は下水に流すのではなくて、各戸で貯めておいて専門業者に渡すことになっていました。おかげでパリは「悪臭」に包まれた街になってしまいました。そういえば江戸でも糞便回収業者が活躍していましたが、江戸ってそこまで悪臭紛々の街だったのでしょうか? ともかく19世紀半ばにはパリでは「全ての建物は下水道に接続していなければならない」と法律で定められ、ロンドンやベルリンよりも早く公共下水道工事が始まります。これによってパリはいくらか幸福になりました。ただ、パリより下流の町々にはそれは不幸でした。浄水場が建設されたのは19世紀末になってからです。
 オペラ座の地下の湖、地下鉄、レジスタンスの地下での活動など、パリの地下には「地下の歴史」がひそかに生き続けているし、これからも存在し続けることでしょう。日本にもそんな不思議な雰囲気の「地下」を持つ地域がないのかな?


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