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2017年12月10日10:21

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作家の死と私的言語について

15年前にチリの友人を訪ねた折のことです。もうすぐサンチアゴに到着するという飛行機の中で乗務員からカードが渡されたので、私は乏しい英語力を駆使してそれを読んでいました。詳しい内容はあまり記憶していないのですが、「南緯XX度以北の動植物は‥‥」というような荷物の持ち込みに関する規制が書かれているわけです。その時私は、友人への土産として昆布をもっていました。もちろん日本産即ち北半球で取れたものです。
海外旅行に慣れていない私は、これを申告すべきかどうか迷ってしまったのです。しかし、申告すれば没収されそうだし、申告しないで見つかれば何かトラブルになるんだろうか、などと考えていました。

真剣にドキュメントを眺めている私を見て、隣の席のアメリカ人の若者が、"Do you need my help ?"とたずねてきました。私は、旅慣れていそうな彼から何かのアドバイスがもらえるかもしれないと思い、"Yes." と答えました。

すると、彼は私の手からその文書を取り上げ、大きな声で1センテンスずつ区切りながら読み始めたのです。(おいおい、意味は分からなくとも大概の英文は読めます。)
そのとき私の脳裏にひらめいたのは、「ひょっとしたら、この若者は書かれた英語は言語だが、声に出している英語は『意味そのもの』と勘違いしているのではないだろうか?」と言う考えでした。

私達は他者と言葉によって意思疎通していると考えている。ともすれば、言葉に意味そのものがのっかっていると思いがちである。しかし、それは所詮空気の振動または紙の上のインクのシミである。意思が言葉によって直接伝わるというのは幻想にすぎない。

自分の意思を言葉にする操作と受け取った言葉からイメージを想起する操作は、言葉を境界として全く断絶している別作業であるとしたのが、デリダの「作家の死」という概念だろう。

ウィトゲンシュタインは、私的言語は不可能だとしているがどうだろう。デリダの言い分を認めるなら、我々が公共言語としている(われながら奇妙な言い草だと思うが)言語の意味が正しく同定されている保証などどこにもないことになる。

つまるところは、言語はすべて私的言語足らざるを得ないのではないかと思うのだが‥‥。
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