mixiユーザー(id:235184)

2017年09月23日07:06

164 view

ファースト

 都民ファーストとかアメリカファーストとか「ファースト」ばやりですが、すると北朝鮮がやってることも「北朝鮮ファースト」と表現できることに?

【ただいま読書中】『普仏戦争 ──籠城のパリ132日』松井道昭 著、 横浜市立大学学術研究会(横浜市立大学新叢書)、2013年、3000円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4861103738/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4861103738&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=8fc61277291f06fb94c78da7135a414a
 フランス革命に対する干渉戦争、ナポレオン戦争で乱れきったヨーロッパに「平和」をもたらしたのはウィーン条約ですが、フランス・ドイツともそれに大きな不満を持っていました。しかし当時のドイツはバラバラで力が弱く、フランスはフランスで7月革命や2月革命で挙国一致体制が取れませんでした。ともかく各国が不満を持つウィーン条約体制ですが、それが機能していた100年間(第一次世界大戦まで)、ヨーロッパではなぜか歴史的には例外的に戦争が非常に少ない時代となりました。その例外が、クリミア戦争と普仏戦争です。
 「誰も戦争を望んでいなかったのに、起きてしまった」戦争として、第一次世界大戦が有名ですが、実は普仏戦争も(ビスマルク以外には)「誰も戦争を望んではいない」状態でした。ところがスペインの王位継承問題にフランスが口を挟んでから、数時間ごとに事態は「戦争へ」のコースに乗ってしまいました。フランスでは、新聞によって世論が沸騰し、それに国会は引き摺られてしまい、とうとう宣戦布告を決議してしまいます。しかし軍の準備は全然間にあっていませんでした。プロイセンはその逆で、軍の準備はできていましたが国民は戦争への心の準備ができていませんでした。そこでプロイセンは「フランスが宣戦布告をした」ことをもって、「この戦争は民族防衛」という大義名分を大々的に打ちあげます。
 デンマークは、国民はフランス寄り、宮廷はプロイセン寄りでした。イタリアでは、国王はフランスびいきでしたが、国論は二分されていて、さらにローマ問題(イタリア独立と統一のときからフランス軍が教皇軍としてローマに駐留し続けていること)が話をややこしくします。オーストリアは、多民族国家であるためもめにもめた末中立を選択。南ドイツ諸国も実は動揺していました。プロイセンの併合主義に危惧を抱いていたのです。しかし「ドイツ人」としての意識が最後に物を言います。
 フランスは、ナポレオンの時には一国で全ヨーロッパを相手に連戦連勝だった記憶から、自信たっぷりに戦端を開きます。言葉も壮大で軽やかなものばかりでした。対してプロイセンのモルトケは慎重の上にも慎重を期します。どうやら「勇者」は、大言壮語ではなくて慎重を選択するもののようです。
 「戦争」は変貌をしつつありました。歩兵は鉄道によって大量輸送され、高性能の大砲が機関銃や騎兵の突撃を無効にしつつありました。しかしフランス軍はその変化に乗り遅れていました。開戦時、ドイツ軍は80万・大砲1500門で、フランス軍に対して兵員で2倍・大砲は10倍の優位を持っていました。さらにフランス軍は、作戦計画がなく、装備や食糧も不足していました。そのため、緒戦のシュピッヘルンの戦い(司令官シュタインメッツがモルトケの命令に違反して攻撃したもの)以外は、フランスの一方的な敗北となりました。しかしビスマルクの本当の狙いは、「戦闘に勝つこと」ではありません。「パリを包囲すること」だったのです。
 その必要がないのに軍を指揮していたフランス皇帝ナポレオン三世は降伏し捕虜になります。しかし「パリ」は敗北を認めませんでした。革命臨時政府が成立しますが、その内部では、急進革命派と穏健共和派の対立が深刻でした。
 パリ包囲に関して、ドイツ軍は楽観していました。革命政府は基盤が脆弱で自壊するだろうし、防衛軍は数が少なく、200万の人口を養う食糧は足りないはず、だから早期に降伏するだろう、と。パリ防衛軍も楽観していました。巨大都市を少数の軍隊で完全包囲することは不可能だし、フランスの地方軍がその背後から襲うからすぐに包囲は解かれるだろう、と。面白いのは、どちらの楽観論も違っていたことです。かくして、両者にとって予想外の“長期戦”が始まりました。
 そのときドイツは統一、フランスではパリ・コミューンの内乱が起きました。結果として、フランスはアルザスとロレーヌをドイツに割譲し50億フランの賠償金を支払いました(完済するまでドイツ軍に占領されました)。これはフランス側に強い恨みの感情を残しました。
 普仏戦争で屈辱を得たフランスは、一国ではかなわないと、イギリスとロシアを味方に引き込む外交戦略を採りました。ドイツは一気呵成に国の統一を成し遂げて単独では強国になりましたが、オーストリアとトルコを味方にして満足するしかありません。こうして、普仏戦争によって第一次世界大戦の“準備”ができました。「戦後」は「戦前」でしかなかったのです。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年09月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930