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2017年09月18日08:58

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荒城の月以外

 「滝廉太郎」で私が思い出せるのは「荒城の月」だけです。それ以外は皆無。あまりに無知な自分に腹が立って、図書館から「滝廉太郎」とタイトルにある本を3冊借りてきました。出版社は「岩波書店」「吉川弘文館」「音楽之友社」で、それぞれの出版社の得意分野が違うから、内容が完全に重なる心配はないでしょう。さて、一気に読んだら少しは私の無知が治療できるかな?

【ただいま読書中】『瀧廉太郎 ──夭折の響き』海老澤敏 著、 岩波書店(岩波新書921)、2004年、740円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4004309212/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4004309212&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=08da637a51aaf2e63bf523652d397bb4
 ライプツィヒはバッハで有名ですが、もう一人、メンデルスゾーンも忘れてはいけません。彼と家族が住んだ家は修復されてメンデルスゾーン記念館として公開されていますし、彼が設立した音楽院は現在でもメンデルスゾーン音楽演劇大学として存在しています。その音楽院に1901年に留学してきた日本人がいました。21歳の瀧廉太郎です。しかし彼が音楽院で学べたのは2箇月だけ。肺結核による喀血をし、闘病生活が始まり、1年半後に帰国してすぐに瀧廉太郎は亡くなってしまいました。
 本書ではまず、彼の“絶筆”となったピアノ曲「憾(うらみ)」に注目します。自筆楽譜ではドイツ語で「Bedauernswerth(憐れむべき、遺憾な、残念な、という意味の形容詞)」がタイトルにつけられその直下に「憾」とあります。しかし、この自筆楽譜は、印刷楽譜とは異なっていて、著者は自筆楽譜の方が「音符で書かれた遺書」としてふさわしい、と考えています。
 著者はモーツァルトの自筆楽譜を研究しているそうですが、瀧廉太郎の「憾」の自筆楽譜の完成度はモーツァルトのものに劣らないそうです。そういえば先日読んだ『モーツァルトの人生』に収められた自筆楽譜は、どれも端正な雰囲気でしたっけ。
 著者は「メンデルスゾーンが38歳で死を迎える直前に最愛の姉ファニーを脳出血で失ったこと」と「瀧廉太郎が帰国後に、自分を本当の弟のように慈しみ音楽家への道を支援してくれていた従兄の瀧大吉を脳溢血で失ったこと」を重ね合わせます。どちらも若き音楽家にとっては大きな打撃でした。ここで彼らの最後の曲は「レクイエム」となります。それも、自分を愛してくれた人へのレクイエムであると同時に、自分自身へのレクイエム。さらに著者は、35歳で亡くなったモーツァルト、31歳で亡くなったシューベルトと彼らの「レクイエム」にも思いを馳せます。いずれも「夭折」と言いたくなりますが、当時は「若くて死ぬこと」は「ふつう」のことでもありました。それにしても23歳の瀧廉太郎はやはり早すぎる、と言いたくなりますが。
 明治時代、西洋音楽はまず「軍楽」として日本に流入しました。日本の近代化のためには音楽も有力なツールだと明治政府は認識をしていました。讃美歌は明治5年に日本語で歌われるようになります。その中にはのちに「むすんでひらいて」で知られるメロディーも含まれていました(ついでですが、「むすんでひらいて」は日清戦争の時には「進撃」という軍歌にそのメロディーを使われています)。同年、新しい学制が布告され、下等小学必修科目14科の中に「唱歌」が含まれます。そして「学校唱歌」が海を越えてやって来ます(2年前に読んだ『仰げば尊し ──幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡』(櫻井雅人、ヘルマン・ゴチェフスキ、安田寛)にそのへんは詳しく書いてありました)。
 瀧廉太郎は、父の転勤に伴って大分県の竹田町の高等小学校で学びましたが、そこで音楽に開眼、この小学校には大分県では当時珍しかったオルガンがあったのですが、生徒としてただ一人、オルガン演奏を許されました。音楽で身を立てるという決意に打たれた従兄の瀧大吉が東京に廉太郎を引き取り、廉太郎は高等師範学校附属音楽学校を目指します。受験には成功、在学期間中、廉太郎はピアノに夢中になり、成績はずっとトップクラスを通し、首席で卒業しました。師範学校附属ですから、音楽教師の供給が音楽学校の目的ですが、滝廉太郎は卒業前から優れた「独奏音楽家」として注目されるようになります。すでに明治も20〜30年代、「演奏」が「楽譜の再現」ではなくて「再創造」であると認める文化ができつつあったようです。しかし学校にはまだ本格的な声楽科も作曲科もなく、瀧は自分自身を「修業半ば」と考えていました。
 音楽学校卒業後、瀧の創作活動の記録は2〜3年間欠落します。それを著者は、明治33年(1900年)から始まる豊かな創作活動を前にしての「充電期間」と推定しています。明治33年11月1日『四季 花、納涼、月、雪』が出版されます。「春のうららの隅田川」で知られる「花」ですが、著者はそのピアノ譜に注目しています。それは西洋歌曲の技法で日本情緒を過不足なく表現した希有な作品だ、と著者は絶賛します。しかし当時の日本では、この『四季』は、ほとんど黙殺に近い扱いでした。次は『メヌエット ロ短調』。滝廉太郎初のピアノ曲です。しかしこれも、瀧の生前には演奏記録はありません。
 キリスト教の洗礼を受け、明治34年(1901年)瀧はドイツ留学に出発しました。その送別記念演奏会で、「花」「荒城の月」「箱根八里」などが歌われています。なお、その前日の発行された『中学唱歌(全38曲)』には「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」(すべて滝廉太郎作曲)が含まれていました。なお「荒城の月」に対して、讀賣新聞は「曲ハよく出来てゐる」と褒めながら「(その情緒は)女性的のあはれで悲壮な所ハない」と批判をしています。日本美術の演奏会評は手放しで褒めています。なお、「荒城の月」の冒頭第二小節で瀧は〈ホ音〉に♯を加えて〈嬰ホ音〉としていましたが、これが議論を呼び、山田耕筰の編曲では〈ホ音〉とされ、現在に至っているそうです。あ、そういえば私が最初に習ったのも〈嬰ホ音〉ではなくて〈ホ音〉のバージョンです。その後〈嬰ホ音〉のバージョンも習って、混乱しましたっけ。
 滝廉太郎は音楽院の入試にパス、張り切って勉学に勤しみます。面白いのは、当時の手紙に、教師たちの凄さだけではなくてその限界や欠点も指摘していること。意欲と自信に満ちていたようです。しかし病魔によって修業は途絶。帰国後大分にこもって、それでも作曲は続けていたようですが、なぜか作品はほとんど残されていません(母親が、肺病の感染を恐れてすべて焼いた、という説があるそうですが、真偽はわかりません)。
 最後に著者は「荒城の月」について詳しく考察します。
 山田耕筰は「荒城の月」にピアノ伴奏をつけ、調性を変更し、テンポをゆっくりにしました。つまり「♯を一つ取った」だけではない大改造を加えたわけです。二つをちょっと歌い比べてみましたが、う〜む、私はオリジナルの方が好きだな。
 なお「荒城の月」は、ジャズ・ポピュラー・ロシア正教の聖歌・ハードロックなどにも“受容”されているそうです。あ、そういえばたしかにジャズバージョンはラジオで聴いたことがあります。あれは〈嬰ホ音〉だったかな?


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