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2017年09月16日06:51

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厳罰で親孝行は増えるか

 ちょっと前の日本には「尊属殺重罰規定」がありました。同じ殺人でも殺されたのが親の場合には一段階罪を重くする、という刑法の規定です。「親不孝は許さない」という点で、江戸時代の流れを汲んでいるのですが、あれだけ江戸時代を否定していた明治政府もそこは江戸幕府と同じ態度で、それが昭和まで維持されていたというのは、「江戸」って日本にきっちり根づいていたんですね。

【ただいま読書中】『古文書に見る江戸犯罪考』氏家幹人 著、 祥伝社(祥伝社新書484)、2016年、840円(税別)
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 最初は「千人斬り」です。願掛けをして「千人を殺したら願いが叶う」という物騒なお告げをもらった、と無差別に人を殺して回る犯罪。これがISISのメンバーの犯罪だったら「イスラム」の悪口を言えば良いのでしょうが、江戸時代には神仏ではなくて「やった本人」の問題とされています。この犯罪が多かったのは元禄以前、まだ物騒な戦国の気風が残っていて、しかも大名取りつぶしが多くて浪人が大量に発生していた、という時代が背景にあるのでしょう。さらに著者は「アモク」を引用します。これはマレー語圏で「不満や恨みが昂じた孤独な人間が、発作的に無差別大量殺人をすること」を意味しています。これは別にマレー語文化圏だけの問題ではないでしょうが、それに対して「固有名詞」を与えている点には注目するべきでしょう。日本ではまだ「あってはならないこと」扱いの域を超えていないようですから。
 江戸に巾着切り(スリ)は大変数が多く、一説では1万人いたそうです(江戸って「100万都市」でしたよねえ)。面白いのは「組合」があり、そこでは「決まりの服装」があったこと。つまり人混みでも「あいつは巾着切りだ」とすぐわかるようになっていたのです。その理由については、本書をどうぞ。そして、大阪町奉行の曲淵甲斐守景漸はそれを見習って大阪の巾着切りたちに「これからは浅黄色の頭巾をかぶって“仕事”をするように(それを守らないと厳罰)」と申し渡し、町内には「浅黄色の頭巾は巾着切りのシンボル」と広報しました。これも現代の目からはびっくりの政策ですが、当時としてはけっこう合理的な判断だったそうです。
 「捕物帖」は日本では人気のジャンルですが、江戸時代には「捕者帖」があったそうです。これは、実際の捕り物の時に「誰が一番手柄か」を査定した記録で、戦国時代の「誰が先陣か」「誰が一番槍か」などを論功行賞したのと似たものでしょう。これを公正にやらないと、命を賭けている現場がやる気をなくしますから非常に重要な「帖」です。
 「大岡裁き」は基本的にフィクションですが、著者は会津藩の文書から「窃盗事件で冤罪を予防できた実例」を発掘しています。拷問で白状した「犯人の自供」に疑問を持った役人が、自白通りに盗めるかどうか実際に実験をしてみてそれが不可能であることを証明する、という筋立てですが、昔も「真実を知りたい人」はいたんですね。
 異常な重罰もあります。たとえば「十両以上の窃盗は死刑」とか。でもこれも世界ではあちこちで似た例があったはず。日本独特といったら「親不孝」のにおいがしたら極端な重罰、という制度でしょう。まさか重罰で脅さないと孝行をしてもらえないという不安があったわけではないでしょうけれど。しかし「事故」で親が傷ついても「それは親不孝の心を子が抱いていたからだ」と「内心を罰する」態度は、結果として「規定が不幸を生むだけ(幸福になる人は誰もいない)」でしかなかったわけで、なるほど、だから「大岡裁き」が必要とされていたわけです。


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