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2017年09月10日06:41

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活断層

 地図を見ると、日本中に活断層があるのがわかります。ところで、地下にあっても地表にあらわれていないものは存在が知られていないわけですし、さらに、海中や湖底、あるいは川の底に沿っての活断層は、現在どのくらいわかっているのでしょう? どこにあろうと、「いつかずれてやる気満々」なのはすでに見えるものと同じだと思えるのですが。

【ただいま読書中】『日本人は大災害をどう乗り越えたのか ──遺跡に刻まれた復興の歴史』文化庁 編、朝日新聞出版、2017年、1500円(税別)
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 日本列島には、約3万8000年前から人類が住んでいるそうです。しかしそこは「災害列島」でもありました。
 約3万年前、鹿児島湾のカルデラを作った大噴火がありました。火砕流は九州南部をほぼ覆い、火砕流堆積物(シラス)台地を形成します(場所によっては100メートルの厚みです)。九州南部の人々はほぼ全滅したはずです。しかし、噴火後に植生が復活すると、すぐに人の営みが始まったことが鹿児島県の桐木・耳取遺跡の調査でわかりました。
 弥生時代になると、縄文時代とは違って、洪水に襲われた遺跡が発掘されるようになります。縄文遺跡は洪水を嫌っていましたが、弥生遺跡は洪水のリスクが高い場所を選んで作られ、だから洪水にも頻繁に襲われていたのです。弥生時代の田は、細い畦(手で泥を集めて作れる程度のもので高さはせいぜい10cmくらい)で細かく区切られていました(だから発掘はミリ単位で削っていくそうです)。川の中に堰を作って水位を上げ自然堤防に取水口を作って田に水を導くシステムがすでに2000年前にできていますが、この「堰」や「取水口」が大雨の時に弱点となります。村が丸ごと洪水に襲われた遺跡もありますが、興味深いのは、その直前に、家財道具一切合切どころか家そのものまで持って避難した形跡があることです。洪水を予知しての避難だったのでしょうか。
 小学校の社会科で習った登呂遺跡は、三回洪水に見舞われているそうです。最初の洪水で集落は一時放棄されますがすぐに再建されました。二回目の洪水では集落は放棄され、田として利用されました。そして三回目の洪水で登呂は完全に放棄されたのです。
 群馬県は、火山灰や軽石などに覆われた下から遺跡が見つかります。遺跡の地表面がのちの耕地化などで破壊されずに保存されているため、県全体が「ポンペイ」だと本書にはあります。ポンペイは放棄されましたが、群馬での過去の復興は、ときの権力の意向によって様々な形で行われています。
 仙台は、2000年前の弥生時代と貞観十一年(869年)に津波に襲われています。江戸時代の初め(伊達政宗が仙台城を築城していた頃)にも地震と津波に襲われたという記録はあるのですが、発掘調査での裏付けは得られていません。東日本大震災で、仙台は震度6、京都は震度3でした。ところが貞観地震では京都では地震の記録がありません。ということは仙台の震度は6未満だったと推定できます。また、多賀城の復興で、屋根瓦がそれほど多く損傷していないことからも地震規模は実はそれほど大きくなかったのではないかという推定が本書では示されています。
 「大災害」の中に、本書では「戦乱」も含まれています。南都焼き討ちで燃え尽きた東大寺や興福寺がどのように復興されたか、この「復興のダイナミズム」はなかなか印象的です。
 本書で重視されているのは「過去(歴史)に学び、体験を古びさせない」「政治の姿勢(復興への意志の明示)」です。だけど、第二次世界大戦という“大災害”でさえ、もう記憶はあいまいになってしまっています。今は記憶に新しい阪神淡路大震災や東日本大震災も、発生後3世代くらいの時が流れたら同じように記憶は怪しくなるかもしれません。だったら必要なのは「記憶のリフレッシュ」でしょう。同じ被害を繰り返し続けるのは、できたら避けたい。


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