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2017年08月22日06:54

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金の出入り

 原油流出事故や原発事故では、「金の亡者(金のためなら安全は二の次、と考える人々)」が引き起こし、他人のために身銭を切るボランティアが後始末に走り回る、という「金への指向の非対称」が顕著です。

【ただいま読書中】『海が死んだ日』オットー・シュタイガー 著、 高柳英子 訳、 堀越千秋 絵、リブリオ出版、1992年、1854円(税別)
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 1970年代のブルターニュは、ゆるやかに衰退の道をたどっていました。若者は次々出ていき、地域の活力は停滞しています。まず、そういった地域での人々の生活が、丹念に描かれます。
 村にアメリカの巨大石油会社が、巨大な石油基地建設計画を持ち込みます。広大な土地を持ち建設業者でもある村長は飛びつきます。他の地主も飛びつきます。例外は、一人だけ。妻の死後も朽ちかけたホテルにしがみつき、3人の子供のうち2人はパリに出て行って、残った1人ももうじき出ていくのは確実なジュール。彼は200万フランの提示をあっさり断ります。村長と村人はジュールを敵視します。わけのわからない個人的な利益にしがみついて、村全体が潤う話を妨害している人間だと。そしてジュールは“村八分”となってしまいます。
 村の中には、人間の感情が“嵐”となって吹き荒れますが、海には本当の嵐が。そして、村の2キロ沖合では巨大タンカーが座礁。20万トンの原油が海を覆います。人々は絶望にうちひしがれ、無言で海岸の砂丘に並んで、死んでいく海を見つめます。誰かが言います。「なにかやるべきだ」。別の者が応じます。「そうだ、だがなにを?」。
 干潮の間に人々は浜辺から手作業で油にまみれた重い砂を手作業で運び出します。「自分たちの海岸」を守るために。満潮と分厚い原油の層が押し寄せて、人々の努力を台無しにします。油まみれとなった海鳥は次々死んでいきます。原油に縛られたようにじっとしていて、次の瞬間すっと海の中に沈んでいくのです。人々は海鳥を獣医のところに運び洗浄をします。鳥は助かります。飛沫と共に飛び散った原油の小さな粒は内陸部まで汚染し、汚染された牧草を食べた牛たちは下痢に苦しみます。
 政府はいろいろ喋りまくり約束を乱発します。しかしタンカーからは原油が流出し続け、海岸では「手作業」が延々と続いています。泥をバケツでくみ上げ、ポンプで集め、タンクローリーで運び出します。口をきく元気が残っている人は、事態を呪い、「戦争中もひどかった。しかし、これほどじゃあなかった」と言います。
 しかし、パンドラの箱のように、絶望の中にも最後に「希望(の芽)」があったのです。
 「原油に襲われた村」は、実は一つの「例」です。原油ではない別のものに襲われた別の村や町や市や国や文明があちこちにあるはず。そういった場所(「自分たちの海岸」ではないところ)でどんなドラマが展開しているのか、もっと想像力を持って世界を見なければならない、という気分にさせられる本です。


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