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2017年07月20日06:17

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失われた騎士道

 『ドン・キホーテ』が書かれたのは17世紀初めです。これはつまり、16世紀にはスペインではすでに騎士道が滅亡していたことを意味します。まあ確かに、“新大陸”でインディオに残虐な振る舞いが平気でできた、という“証拠”もまた、その「騎士道の滅亡」をしっかりと示していますけれどね。

【ただいま読書中】『パナマ地峡秘史 ──夢と残虐の四百年』デイヴィッド・ハワース 著、 塩野崎宏 訳、 リブロポート、1994年、2987円(税別)
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 コロンブスは4回目の航海で、人生で最も遠い地点に到達しました。パナマ地峡のダリエンです。しかしそこにはジャングルしかなく、引き返したベラグア(現在のパナマ運河の入り口がある場所)で待望の黄金を発見します。当時のヨーロッパの常識では異教徒を人間扱いしないのは“正当な行為”でしたが、その常識から見ても非常識で野蛮な行為をヨーロッパ人は行い、その結果インディオとの間に戦争が勃発します。ヨーロッパに伝わったのは「コロンブスの報告」で、その結果インディオは野蛮でどう猛な民族と定義づけられましたが、その報告の行間を著者は正確に読み取ろうとしています。
 コロンブスが立ち去って6年後、こんどはバルボアがやって来て、部落を襲撃しました。スペインによる本格的な征服の始まりです。コロンブスは(当時のヨーロッパ標準程度には野蛮だったとは言え)まだ「探検」「発見」に価値を認めていました。しかし「黄金と奴隷以外には価値を認めないスペイン人」が陸続とやって来る時代になったのです。
 ジャングルは、インディオには生活の場でしたが、ヨーロッパ人には死の罠でした。コロンビアに入植した人々は、毒矢を駆使するインディオに殺されていきました。パナマの入植者はインディオとは極力接触しませんでしたが、マラリア・黄熱病・赤痢などでばたばた死んでいきました。スペイン人は、平和だと相争うが、危機だと団結するのだそうです(それはスペイン人に限ったことではないでしょうが)。危機の中からバルボアという“リーダー”が生まれ、最初はインディオを襲いますが、なぜか途中から協調路線に転じます。特定の部族と協力をして、インディオは食糧を生産し、スペイン人は部族間抗争に武力を貸す、という関係を築いたのです。そこでバルボアは「食人種の土地を通り、山を越えて別の海を見るところに、豊かな土地がある」と聞かされます。別の海? もちろん太平洋のことです。しかしバルボアたちが心動かされたのは「別の海」か「豊かな土地」か、それはわかりません。ともかく、スペイン人とインディオの大遠征隊が出発します。ジャングルを戦いながらの進軍ですから、スピードはゆっくり(平均1日1マイル)です。戦闘と行軍の1箇月後、バルボアは太平洋を“発見”します。その後のバルボア(とパナマ)の運命は、スペイン王によって翻弄されます。王が興味を持つのは植民地の利益の1/5(王の取り分)だけだったのです。バルボアは大西洋岸で木材を切り出し、それを太平洋岸に輸送してそこで船を組み立てて探検に出発しようとします(なぜ太平洋岸で木材伐採をしようと思わなかったのかは、謎です)。植民地の権力闘争の結果、バルボアは死刑となり、パナマは“三人目の男”フランシス・ドレイクを待つことになります。
 バルボアの死によって、ヨーロッパからの虐殺と破壊の波は歯止めを失います。地峡のインディオはほとんど殺され、野蛮なピサロは南に向かいます。インカの金、太平洋岸の真珠、ボリビアの銀が根こそぎパナマ経由でスペインに運び出されました。皮肉なことに、これはヨーロッパの物価上昇をもたらし、スペイン王は16世紀後半だけで3回破産しました。虐殺されたインディオの意図せぬささやかな復讐といったところでしょうか。
 マジェランにより「世界地図」がある程度完成し、「新大陸」の巨大さとパナマ地峡の細さが目立つようになると「そこを船が通れないか」という発想が生まれます。文献としてのそのアイデアの初出は1555年の『世界の諸発見』(アントニア・ガルバン(モルッカ諸島のポルトガル知事))です。ただ、誰もそれを実現させる具体的な手段を思いつかなかったのですが。
 キャプテン・ドレイク、海賊モーガン、地峡を平和的に横切る“回廊”を作るという理想に燃えるスコットランド植民地、スペイン帝国の崩壊、ゴールドラッシュのカリフォルニアにパナマ経由で行こうとする人々(と、その需要を当て込んだパナマ横断鉄道(と「枕木一本につき1人」と言われた工事の犠牲者))……そして、ついに「運河」が動き始めます。1870〜75年、アメリカ海軍は正式な測量を開始します。そして「偉大なフランス人」ド・レセップス。
 パナマ運河建設に従事したフランス人は、3人のうち2人が、主に黄熱病とマラリアで現地で死にました。まだ「蚊」の重要性が知られていない時代です。さらに複雑な地層と大水が意地悪く工事の妨害をします。やがて「(スエズのような)海面運河」ではなくて「ロック式運河」だったら実現性がある、というアイデアが提出されますが、「フランスの名誉」にかけて「海面運河」を請け負ったド・レセップスはあっさり却下します。しかし運河会社は資金が枯渇、ついに2万人の死者と12億フランの負債があとに残され、フランスでは政治スキャンダルの嵐が吹き荒れます。
 アメリカはニカラグアにロック式運河を作ろうとしていました。こちらの方がパナマより距離は長いが建設が容易な地形です。そこでアメリカの世論をニカラグアからパナマに変更させるための熾烈なロビー活動が展開されました。いやもう、生々しいお話が次々登場します。地峡の主権を持つコロンビアは、できるだけ多くの利益をアメリカ(とフランス)から得ようと画策します。そこでパナマ革命(コロンビアからの独立運動)が勃発。ルーズベルト大統領は実に素早く「パナマ」を承認します。
 「インディオに対する偏狭さ」で始まった本書は「黄熱病の蚊対策に対する偏狭さ」で終わります。もしかしてパナマ運河は「偏狭さ」の産物でした?


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