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2017年06月18日22:30

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発酵

 我が家では毎年梅シロップを作っています。これまで特に問題はなかったのですが、今年はなぜか梅全体がシロップで浸るようになった頃から全体が濁り始め細かい泡が。密閉していた蓋を開けるとしゅかっとエアが抜けます。これは発酵です。このままにしていたらお酒になってしまうから、一度火入れをすることにしました。しかしシロップを加熱殺菌をしてから梅の実をもどして2日後、またぶくぶくと泡が。どうも梅の実にしっかり酵母菌がついているようです。「自然酵母」はパン屋さんでは人気ですが、梅シロップには邪魔でした。残念。

【ただいま読書中】『キリスト教一千年史(下)』ロバート・ルイス・ウィルケン 著、 大谷哲・小坂俊介・津田拓郎・青柳寛敏 訳、 白水社、2016年、3400円(税別)
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 5世紀に「(聖母)マリア」を巡る大論争が起きます。「人が神を出産できるのか?」という素朴な疑問が出てきたのです。人と神の結婚は、ギリシア神話などで別に珍しいことではありません。しかしその結果人が出産するのはせいぜい半神、あるいは神的な力を持つ人間。神は神からだけ生まれるはずです。
 これは実は「マリア」ではなくて「イエス」の「神性」と「人性」を巡る論争でした。この時重要だったのは「主張の正しさ」よりも「声の大きさ」と「皇帝を動かす力(公会議そのものの開催許可を皇帝から取り付ける・公会議での議題選定・公会議の開催場所(ライバルが参加しづらい場所)の選定)」でした。この時シリアの司教たちは「マリア」を「神の母」と呼ぶことを支持し、それが東方諸教会で受け継がれていくことになります。
 次に問題になったのは「(イエスの)本性」の問題です。これを巡って開催されたカルケドン公会議は紛糾しましたが、このとき“副産物”がありました。キリスト教の世界では「ローマ」が「NO.1」で「NO.2」を巡ってコンスタンティノープルとアレキサンドリアが争っていたのですが、この公会議でコンスタンティノープルが「NO.2」と公認されてしまったのです。おさまらないのはアレキサンドリアの人たちですが。
 キリスト教の広がりは、地道でゆっくりしたものでした。しかしローマ帝国の外側に広がり始めたとき、パターンに変化が生まれます。たとえばグルジア王国やアルメニア、あるいはヌビアやエチオピアでは王や王女が率先して改宗したのです。キリスト教は権力と結合し、権力は宗教を自分の権威の強化に利用しました。
 6世紀の中頃、エジプトの商人コスマスは胡椒を求めてインドに旅をしました。途中、インド南西海岸マラバルやセイロンで「キリスト教の教会」を(当然信者も)発見しています。ずっと後の「プレスター・ジョン」の噂の種子がここで蒔かれたのかもしれません。後にイスラームも東南アジアに進出していますが、この海路は宗教が往来しやすい環境だったのかもしれません。陸路ではシルクロードを通って中央アジアにキリスト教は進出し、さらにシリア語を話す修道士たちは中国にまで到達しました。唐王朝はキリスト教徒を歓迎し、太宗(在位626-649)は修道院を建てる布告を出しています。敦煌で発見された文書では、布教のために「先祖崇拝・親孝行・皇帝の崇敬といった徳目」が強調され『受け入れやすい方法で受け入れさせる」戦略を教会が採っていたことがわかります。
 6世紀にはローマ帝国は全体としてキリスト教化されましたが、コンスタンティノープルは「ギリシア語を話すキリスト教徒」にとって「NO.1」の地でした。明らかに「東西ローマ」です。さらにコプト語を話すキリスト教徒(エジプトのキリスト教徒)も独自路線を歩もうとし、帝国教会は亀裂は大きくなっていきます。
 西欧では、ローマの支配が緩むと王たち(と王妃たち)が“舞台の主役”となり始めます。その代表がフランク王。その保護や支援を得ながら、修道士たちは西欧に布教し続けます。その結果8世紀には西欧のほぼ全域がキリスト教を受け入れました。
 7世紀初めササン朝ペルシアは北メソポタミアに侵攻し、614年ついにエルサレムに侵入、略奪・破壊・殺害を行います。聖地が汚されたことにキリスト教徒は衝撃を受けますが、アラブ軍は容赦なく版図を広げ、やがてコンスタンティノープルにまで迫っていきます。その中でもコンスタンティノープルでは「キリストの本性」についての議論がしつこく行われていて、東方キリスト教世界は大きく分裂してしまいます。ローマ帝国も没落を始め、そこにイスラームが勃興します。エルサレムはこんどはイスラームに支配されます。イスラーム支配地ではアラビア語が使われるようになりましたが、エジプトのキリスト教社会ではそれまでのコプト語を使い続けました。パレスチナ・シリア・メソポタミアではキリスト教徒の言葉はアラム語(またはシリア語)です。しかし8世紀中頃にはイスラームの優位性を認め、キリスト教の文献をアラビア語に翻訳する動きが本格的になりました。伝道のためではなくて、キリスト教の特徴を説明する(理解してもらう)ためでした。この時期にアラビア語を習得したことが、イスラーム支配下のキリスト教徒に独特の知的な環境(たとえばアリストテレスの研究)をもたらしたようです(もしかして、これが12世紀ルネサンスの“原因”?)。イスラーム支配下でキリスト教徒は「庇護民(ズィンミー)」でした。支配に服属し税を払う限り、宗教の自由が(教会建設の禁止、などの制限付きで)保障されていました。イスラームが北アフリカを西進していた頃、スペインではユダヤ人迫害がひどくなってきていました。711年ベルベル人部隊がジブラルタル海峡を渡ってスペイン侵略を開始。その勢いは、ピレネーを越えてフランク人の頑強な抵抗に遭うまで続きました。最初はキリスト教徒の“殉教者(イスラームの行政官の面前でわざとムハンマドの悪口を言って斬首される)”が相次ぎましたが(殉教者というか、自殺テロ?)、イスラーム法が行き渡り公用語としてのアラビア語が定着するとイベリア半島では改宗者(キリスト教→イスラーム)が増加しました。
 本書で特異的なのは「地域と言語」に注目していることです。スラヴ人への布教では、わざわざスラヴ語を書き表すために「キリル文字」が作られました。それだけの労力を払う価値がある仕事だという認識が教会にあったのでしょう。私が一番面白く感じたのは「アラビア語で書かれたキリスト教の文献」のくだりです。そこに住む人が使う言葉に“翻訳”しなければ何も伝わらないからしかたないのでしょうが。イエス・キリストはおそらくアラム語を喋っていたはずですが、その“ことば”がローマに広めるためにラテン語に“翻訳”されたとき、キリスト教は何かを失い何かが変質し何かを得たのではないでしょうか。言葉が違えば人に伝わる概念や意味も変化するはずですから。


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