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2017年06月17日06:44

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チンダル現象

 明るいところでトイレットペーパーをちぎってみたら、チンダル現象で、細かい紙埃がわっと立ち上がるのが見えました。これが和紙だったら繊維が長いからそこまで埃は発生しないはずで、水に溶けなくちゃいけないトイレットペーパーはとても短い繊維を漉いてできていることが改めてわかりました。
 だけどそれだと、トイレでトイレットペーパーを使うたびに、私たちはその紙埃を吸い込んでいるわけです。おやおや。

【ただいま読書中】『キリスト教一千年史(上)』ロバート・ルイス・ウィルケン 著、 大谷哲・小坂俊介・津田拓郎・青柳寛敏 訳、 白水社、2016年、3400円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4560084572/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4560084572&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=77edfa5e87fc9a3410da26900ef0b0ca
 厳格なユダヤ教徒としてイエスはユダヤ教の規定を守り、形式化していた戒律を救い出そうと努力していました。そしてイエスの死後、教団はユダヤ人だけを相手に布教活動を継続していました。それを変えたのがパウロです。それまでキリスト教の迫害者だったのが復活したイエスに出会ったことで回心したしたパウロは、非ユダヤ人にまで伝道の対象を広げました。そこで問題になるのがユダヤの戒律の取り扱いですが、一番大切なのは「イエスの教え」ということで話は決着します。さらにパウロは「死からの復活」をキリスト教教義の基底に置きました。だからでしょう、パウロは「キリスト教最初の神学者」と呼ばれることがあるそうです。
 初期キリスト教で問題になるのは「ユダヤの律法」の取り扱いでした。ユダヤ人がキリスト教徒になったりキリスト教徒がユダヤ人と混在して暮らす共同体では、どこでもそれが争点となるのです。4世紀までシリアのキリスト教徒の一部は祝祭日にシナゴーグに行っていました。「暦」も大問題です。「暦の支配者」は人の生活すべてを支配できるのです。キリスト教ではまず「日曜」を「主の復活した日」として礼拝のために集まるようになりました。ついでユダヤの過越祭の春の日に年1回の祝祭を祝うようになります。これは後世「イースター(復活祭)」となりますが、最初はキリストの受難・死・復活を祝う厳粛な行事で、「過越祭」のヘブライ語「ペサハ」のギリシア語「パスカ」から「パスク」と呼ばれました。すると次の論争は、祝祭前の断食をどのくらい行うか、です。各地の教会で論争が行われます。また、グノーシス主義(私の単純な理解では、聖書を神秘主義的に理解する、大衆に大変人気のあった“キリスト教”)に対して「教会」は団結し、ゆるやかな地域共同体の結合は「組織」へと鍛え上げられていきました。
 最初の2世紀、キリスト教徒は(ユダヤ教徒とは違って)目立たないように生きていました。それがすこしかわったのは、3世紀の初頭にカタコンベ(地下の墓地)をローマで建設し始めたことです。ユダヤ人はローマの火葬の習慣を「死者への侮辱」とし、その1世紀前から地下墓地への埋葬を始めていました。同じく火葬を否定するキリスト教徒がそれを真似したのかもしれません。ただし“秘密基地”ではありません。地元の住民はその位置もいつ礼拝が行われるかも知っていました。カタコンベ建設にも“組織”の力が必要でした。同時期、キリスト教美術が出現します(おそらくそれまでもあったのでしょうが、証拠は残っていません)。
 249年に皇帝になったデキウスは、新年にあたりローマ市民に対してローマの神々への宗教的行事の正式な実践を求めました。それが免除されたのはユダヤ人だけ。ところがキリスト教徒は異教の神のために祈りませんでした。迫害が始まります。財産没収・投獄・拷問・死。キリスト教徒のコミュニティは「異教の神に犠牲を捧げる人」と「拒否して迫害される人」に分裂します。3世紀前半にローマ帝国は厳しい時代を経験していて、新しい皇帝は結束を強めようとしていたのかもしれませんが、同じ時期に人口が増えていたキリスト教徒はその“異端”ぶりが目立ってしまったのでしょう。デキウスの次の皇帝たちもキリスト教徒たちを「古の教え(ローマの宗教)」に戻すために迫害を継続しましたが、それは逆効果でした。311年上位の正帝ガレリウスは死の床で迫害の終結を宣言します。
 バラバラになりかけていたローマ帝国を再統一したコンスタンティヌスの肝煎りで、325年に最初の「全地公会議(教会の問題を討議する会合)」であるニカイア公会議が開催され、過越の祭りについてなど公的な決定がされます。さらにコンスタンティノープル公会議で「三位一体」が正式決定。キリスト教の“基礎”が確固たるものになります。
 3世紀後半のエジプトの砂漠にすでに修道士(というより、村の隠棲者)がいました。やがてその数は増え、共同体が緩やかに組織されていきます。4世紀末にはシリアの砂漠にもその動きは広まります。修道院は世界に定着し、やがて伝道の最前線に位置するようになります。また、イスラーム勃興語には修道院の内部で文書の翻訳が盛んに行われ、教会はシリア語からアラビア語に移行していきました。
 本書には「キリスト教司教たちが貧者を“発明した”」というピーター・ブラウン(歴史家)の言葉が紹介されています。聖書に登場する貧者は神によって聖なる地位を与えられていて、正義がなされるべき集団でした。貧者と困窮者に対する配慮は、早期から司教たちの「責任」だったのです。4世紀までに貧者と困窮者を世話する建物が造られます。名前は「クセノドケイオン(病院、療養所)」「プトコトロフェイオン(貧者の家)」など。これは貧しい旅行者や巡礼、異教徒でも利用可能でした。4世紀の司教パシレイオスは皇帝ウァレンスを巻き込んで「パシレイアス(後の「病院」の原型)」を建築します。


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